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17歳だった!

原田宗典『17歳だった!』を読み終えた。
タイトル通り17歳の頃の筆者の体験を綴ったエッセイだが、17歳だけでなく高校三年間のことが断片的に描かれている。

昨年読んだ文学界のエッセイ特集号でトリプルファイヤーの吉田氏がこの本についての思い出をエッセイとして書いていて、タイトルに惹かれて買おうとしたのだが、既に絶版になっていた。
電子では流通しているようだったが、書籍紙主義過激派の私はアマゾンのKindle版の文字には目もくれず、TSUTAYAのアプリを立ち上げ、ネット在庫、近隣の店舗在庫を調べ、本格的に絶版になっていることに興奮した。
 絶版になっている本を新品で手に入れようとする行為は宝探しにも似てなかなかに楽しい。ハンターはこういう気持ちなのかとジン=フリークスに思いを馳せてみたりする。探すという行為が指先だけで完了してしまう現在を便利に思う反面、店に行って探さなくていいことをすこし寂しく感じる。
 そんな気持ちがありつつ、絶対に入手すべくスマホに頼るが、あらゆる書店の在庫を調べた結果、見つけられなかった。結局新品で買うのは諦め、この世で最も良いサービスことブックオフオンラインで検索すると110円で売っていた。すぐに近くの店舗で受け取れるようにしてポチってスマホを閉じた。
このとき血眼になって探した時間を哀れんではいけない。探していたものが手に入る喜びよりも探していたときのワクワクの方が素晴らしいって経験的にも分かっているしHUNTER×HUNTERで学んだでしょう?
しかしそんな強迫観念に駆られつつも、哀れみの気持ちはうっすらとあり、すこしだけ虚しくなる。
ちなみにブックオフオンラインでは店舗受け取りにすると110円の本でも送料無料になるのでおすすめです。マジで。

本書は父親の転勤で中学まで過ごした東京を後にし、岡山へと引っ越した筆者の高校生活の断片が描かれる抱腹絶倒であり少しセンチメンタルな気分になるエッセイ集である。
高校時代を文章にするのはすごく難しい。注意しないとあの頃はよかった的なノスタルジーに染まってしまうし、酷いと自慢を描くだけの自慰行為文章になり、とてもじゃないが人に読ませられなくなる。だから私はあまり高校の頃のことは書きたくない。
ところが本書はエピソードと紐づく感情のひとつひとつがノスタルジーで描かれてなくすごい。粗野で乱暴な出来事が、うっすらとした切なさを含む文体で書かれている。

印象に残ったエピソードを紹介したい。
自転車の筆者が原付に乗る友人の肩に掴まり、そのまま発進する場面である。

「肩に摑まれや」
 しばらく並走したところで、H原君は不意にそんなことを言った。何のことか分からなかったのできょとんとしていると、彼はもう一度、
「肩に摑まれや、ぎゅっと」
と言った。納得のいかないまま、左手でH原君の右肩に摑まると、彼はその体勢でアクセルをじわじわッと開いた。ダックスのスピードが上がっていく。ぼくのミニサイクルはH原君の肩を支点にして引っ張られるような格好で、並走する。
「人力サイドカーじゃ!」
H原君は笑いながらそう言った。ぼくのミニサイクルはダックスに引っ張られるまま、みるみるスピードを上げた。おそらく五十キロ近く出ていたと思う。
「こりゃいいやあ!」
ぼくは正面から吹きつけてくる冷たい風を胸一杯に吸い込みながら,大声で言った。まるで自分自身がバイクを駆っているような爽快感だった。

この短い文章に高校生の自由さが詰まっている。少なくともこの自由さは今じゃ絶対に経験できない。だって今ならそもそもふたりともバイク買うから、こんなチープであほらしい出来事は発生し得ないからだ。
 可処分所得が増え、金銭的な余裕ができたのは素晴らしいが、後戻りできない気がしている。値段を気にせず本やレコードを買えている今、本屋で文庫本二冊を並べ、合計1000円にも満たないのにどちらを買うか散々迷って決断した結果、選んだ本がつまらなくて絶望していた頃にはもう戻れない。しかし、迷ったらどちらも買えている今を虚しく感じるのもまた事実である。金銭の自由と時間の自由のトレードオフ性は永遠のテーマだと思うし、ここでは書きたくないが、一方通行にならずにあの頃へたまに遊びに行けたらなと思う。
タイムスリップしたいのではなくて、遊ぼうって約束=飲みに行くというのも楽しいけど、公園に集まって鬼ごっこしたり、走り回ったりしたいなと思う。実際やるとメタ的な気持ちになりそうで怖いが、Youtuberの本気で鬼ごっこ!みたいな動画が前にバズってたのとか思うと潜在的にみんなそんな風に遊びたいんじゃないかと思ったりする。
 そう考えると、友だちと不定期に開催する散歩の会はわりと良いと思う。集まって話しながらひたすら歩いて疲れたら喫茶店でお茶を飲み、暗くなったらご飯を食べて解散という会。身体を動かしながら友だちと会話するという子どもの頃は当たり前にやっていたことが嘘みたいに、大人になってやると新鮮に気持ちになれる。だからもっとやっていきたいし、みんなやったらいいんじゃないかと思う。

筆者はあとがきにこう書いている。

「本当に高校生だったんだなあ」
と改めて感じ入った。そして十七歳の倍の年齢になってしまった今の自分を、何だか鬱陶しく思った。
 高校時代のことを思い出すと何だか夢のようだ、などと言ったら陳腐に過ぎるだろうか。
しかしぼくの高校の三年間は、本当に夢のようだった。小、中学校の時代や大学時代、あるいは社会人になってからの日々と比べてみても、高校時代だけ思い出の色合いが違う。
やけに明るくて眩しいのである。
(中略)
 十七歳。
 口にしてみると、この響きは他のどんな年齢よりも軽やかで、愉快で、しかも美しく感じられる。

私は高校を卒業してまだ6年しか経っていないが(それでも時間の早さのとてつもなさを感じる)、たまに高校生だった頃を思い出して、筆者と同じような気持ちを抱くことがある。iphoneのカメラロールで当時の写真を見返すと、そこにはやけに楽しそうな自分が写っている。自分は十七歳だったんだと思い返して、こちらまで笑ってしまいそうになる。もう2度と戻れないあの時間、と言ったら感傷的だが、たまに懐かしんで口元を綻ばせることくらいは許してほしい。

 涼宮ハルヒの憂鬱というアニメがある。リアルタイム世代でないが、高校生の頃なぜかNHKでやっていた深夜の再放送で見ていた。エンディングテーマに『止マレ!』という曲がある。

どうしようかって悩んだこともいま思えば笑えるほどだったのになぜ泣けたんだろう?

止マレ!の歌詞より

 笑いながらもすこし寂しいな気持ちになって本書を読み終えた後、「過去は当然誰とも取り替えたくはない」と高らかに歌うこの曲を思い出した。
 当時抱いた悩みや不安は忘却し、すでに消え失せた。想像で補完するしかなくなったが、いつまでもくよくよしてウジウジしているけど割と自信家で見栄っ張りだった当時の自分をよく覚えている。というかその上に今の自分が成り立っているのである。

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