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1年通ったバイブルサロンで牧師先生に言われ印象に残ったこと。

↑↑↑ 前記事でお話させていただいた精神科医の先生に薬のことで相談してくださった信徒さんに夫の様子を伝えたところとても喜んでくださいました。

そればかりか、「集いでは個人的な話がなかなかできないので一度ご自宅近くまで伺いますので、喫茶店かどこかで会いませんか?」と言ってくださり会うことになりました。
はじめて1対1で会うので私はとても緊張しましたが、個人的な話ができて、その信徒さんとは距離がグッと近くなりました。
私はこの方の行動にすごく驚き感動したのです。
その方にとっては私は赤の他人です。
我が家の状況などその方には全然関係のないことです。
にもかかわらず、わざわざ遠方の我が家の近くの喫茶店まで来てくださり、私のために時間を割いてくれたこと。
熱心に我が家の様子を尋ねてくれたこと。
こういう人をクリスチャンっていうのかなとはじめて思いました。

そして気づいてみると、月に一度のバイブルサロンはちょうど1年を経過していました。休みなく通い、マルコによる福音書を通して少しずつ聖書の世界観を学んでいました。これまで教えられてきた常識や価値観とまるで違っているので、いつも驚きと新鮮さがありました。
その中でも私が強く印象に残っているのは、神の領域に身をおかない限り
悪魔の領域にいることになる
グレーはないとはっきり牧師先生がいわれたこと。
え??私も悪魔の領域にいるってこと??と。
それと、イエス様は天に足場を置いている
大地に足場を置いていたらしるしと奇跡はできないと。
大事に足場を置くということは目の前の現実に左右されるということ。
天に足場を置くと、現実に左右されない。
どのような現象が起ころうともイエス様には関係ないのです。
それから、分かち合うということ。
パンを割く、
この割くということがポイントだと教えてくださいました。
分かち合うは愛し合う。

統合失調感情障害である夫は特に、感情や気分に支配されています。
でも、感情には神は働かないとも言われていました。
気分や感情を神にしないこと。
愛はウエットな人情的なものではなく、もっとドライなものであること。
聖書の価値観の愛は、
相手にとってそのことが善かどうかということ。
ここでいう善とは、神が喜ぶこと
神様が喜ぶことを生活の中で実践する
生活実践なくして聖書は読めないといわれていました。

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