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写真は捨てること、妄想させること

今の僕の写真論。
もちろんこれ限りではない。
ある一つの写真のあり方についての持論です。


「うまく写真が撮れないんだけどどうしたらいい?教えて??」


僕はこう聞かれた。多分僕は教えるほど上手くも偉くもない、ただ正直聞かれるのは嬉しいし、なるべくうまく教えたいと思いながら答えた。

「写し過ぎないのがいい。相手に想像…いや、妄想させてあげて。いかにフレームの外に捨てるかを考える。」


人がシャッターを切りたくなるのはどんな時か?

有名な建造物。猫が近くを歩いていた。花が綺麗に咲いていた。
どれもこれもその場その時、見た記録、見た証拠。
そして共有したい想い。

純粋に見たものの感動を伝えたい時もあれば、見たことを自慢したい気持ちもあるだろう。はたまた見たことを信じてもらえなかったときのための保険か。

ここで重要になるのはいかに「きれいに」「全体を」「余すことなく」写せているか。人はちゃんと写せないのが不安だ。頭から爪先まで余すことなく、写せるならできる限り写す。

もちろんそれでも良い。良いけど僕は余地のある写真がすきだ。

パッと見わからなくたっていい。写真の外、フレームをはみ出た先に、妄想の余地を残してほしい。本と同じだ。すべてを事細かに多彩な表現を駆使し書き上げられた文章もある一方、多くは語らず、行間によって表現する。読者に委ねる。


白黒の文字に色がつきそうなほど面白い文章を書くブロガーといい声した声優は顔なんかだすな。実際の顔が良いとか悪いとかそういう問題じゃない。妄想させ続けてほしいんだ。人はそれぞれ声や語り方で勝手に理想の人物を作り出す。そこに答えはいらない。

想像の余地とは思い出補正に似ていると思う。
見た人間が勝手に補完する。脳がよく解釈する。


人は見たいように見る。





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