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引き裂かれる社会 扇動は分断から始まる

加藤文宏


引き裂かれる社会

 車椅子を使用する障害者女性が、事前連絡をしないまま介助者が必要な映画館の席をたびたび利用していたため、会場側から「スタッフのリソースにも限りがあるので、今後はご遠慮頂きたい」と申し送られるできごとがあった。
 過去からの経緯と背景を語らぬまま、女性は「悲しかった」「トイレで泣いた」「怒りに変わってきた」「社長と話し合いたい」と映画館を批判した。手順と手続きを経て課題を解決しようとする姿勢がみられなかったため、人々は映画館や社会が罪を問いただされ非難されていると解釈した。糾弾である。
 糾弾を支持する者と支持しない者から、さまざまな意見が飛び交った。そのうち、劇場の事情に理解を示した障害者を「名誉健常者」呼ばわりする人物が登場するに至り、映画館や社会が糾弾されているだけではないことが明白になった。
 社会が引き裂かれ、人々が分断されたのだ。

指差し行為と指さされたくない人たち

 「あの人は差別主義者だ」と誰かを指差す人がいるとき、指先を向けられていないにもかかわらず罪の意識を感じる人がいる。
 このとき罪の意識を感じるのは、心に差別する気持ちが潜在しているのではないかと疑心暗鬼になった人たちだ。自らを「良い人」、自らの立場を「正義」と自認しているゆえに、疑心暗鬼に陥るともいえる。
 また、糾弾がはじまったのを察知し、良い人として正義の鉄槌を思い切り振るいたい人たちもいる。
 重要なことは、「あの人(あの集団)」が本当に「差別主義者」や「加害者」かどうか関係ない点だ。良い人を自認するだけでは物足りず、他人からも良い人と評価されたい人たちは、「差別主義者」や「加害者」のレッテルだけは貼られたくないと考えている。ゆえに弾かれたかのように、指差す人の主張に賛同し、真偽や事情を精査しないまま、そちら側につく。
 前述のできごとでは、女性の属性から彼女が一方的な被害者であるとする認識が生まれ、感情的な訴えを検証しないまま映画館を批判する人々が続々と登場した。このため劇場側の事情を語る人が現れても、まともな議論に発展していない。〈あの映画館のクレームを出した子だって、もしも、若い女の子じゃなかったら、「このクソ生意気女が!」みたいなノリで、あそこまで叩くかね。叩いてるヤツ、「いつもの男連中ばっか」じゃんw〉と言い出す者までいた。
 こうして分断を深め、相手を悪しき存在と印象付け、無辜で無謬な善人を装うのだ。
 無辜で無謬な人を装うとは、そうであるように他者に対して見せかけることなので、心の中で思っているだけでは始まらない。これが分断を決定的にし、分断を深め、関係の修復どころか攻撃を続ける言動の原動力になる。
 差別主義者、横暴な強者、加害者の列に、カルト宗教と信者、自民党の議員、原発推進派、ミソジニーなどのレッテルも並んでいる。これらを敵として指差す人に無辜で無謬な善人を装いたい人々が従った結果、どのようになったかは説明するまでもあるまい。

分断ではじまる社会運動

 会員記事ではさまざまな実例とともに、人々を分断してはじめられる社会運動の構造や、被害者意識と義憤を利用して「虚像」を生み出す構造をたびたび説明してきた。これらを整理して、社会運動の構造と戦術をあきらかにしよう。

 社会運動の構造と戦術を整理したものが下図だ。異議申し立てを社会的なできごとにして、現状を変えようとするのが社会運動である。これそのものに問題はないが、社会の分断を戦術として使用する際に弊害が発生する。

 発端となるできごとは個人的なものもあれば、集団にとっての経験である場合もある。いずれにしても背景や事情は単純ではなく、異議申し立てをする側だけの見解だけでは全体像を把握できない。
 ところが、社会運動は被害と加害に単純化されたナラティブ(物語)をつくりだして始動され、ここに事実より情緒を重視する極端な構図が描かれがちだ。この設定のうえに「被害者」と「加害者」がつくり出され、加害者への糾弾が始められる。
 車椅子女性の場合は虐げられ続ける障害者と、無関心であったり差別的な社会という構図だった。実態はこれほど単純でも二極化しているわけでもない。
 反原発運動では被曝したり被曝の危機にさらされた人と、原発を建設を進めたり運営して利益をあげてきた政府と東電という構図だった。このナラティブでは単純化と二極化が激しいだけでなく、被害が大げさに捏造された。
 単純化と二極化は虚像を生み出す。こうした設定の段階から事実ではなく「虚像」をもとに人々の情緒が煽られのである。
 良い人を自認するだけでは物足りない、他人からも良い人と評価されたい人たちは、「加害者」のレッテルを貼られたくないばかりに、「加害者」を指差す社会運動の主張に賛同し、真偽や事情を精査しないまま、そちら側につく。
 このような賛同層が形成され、社会が分断される。同時に「できごと」は社会的なものになり、個人や集団のみの問題ではなくなる。個人や集団の不都合や被害、好き嫌い、気分を訴えたのではなし得ない規模で、社会、政治にかかわる体制や制度、資源配分の現状、社会規範、意識や価値観の変革が問われる。

勧善懲悪の設定と演出を拒否できるのか

 ここまで説明してきたタイプの社会運動は、劇場の舞台で勧善懲悪の物語が設定と演出通り展開されるのと何ら変わらない。芝居は現実ではなく、気に入らないなら観劇しなければよいが、社会運動はすべての人を否応なく巻き込む。
 しかも、社会運動の提唱者側がノーディベート(加害者・差別者とは議論しない)という立場を取ることがある。ノーディベートはナラティブによって設定された極端な構造をもとに作成された、「加害者」「差別者」に向かって宣言されたものだ。
 預かり知らない勧善懲悪の芝居が行われている舞台に、唐突に引っ張り上げられ「悪役になって成敗されたくなかったら賛同しろ」と言われるようなものである。あまりの意味のわからなさから質問をすれば、「加害者や差別者とは会話しないと言っただろ」と衆人環視のもと悪役に仕立て上げられる。加害者に設定された側へ理解を示した障害者を「名誉健常者」呼ばわりしたり、賛同しない人々を悪しきグループと勝手にみなして貶めようとする態度も、似たようなものと言ってよい。
 では、勧善懲悪の設定と演出を私たちは拒否できるのか。できるとしたら、どのようにしたらよいのか。まっとうな方法で利害の調整をはかる術を考えなければならない。

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