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雪夜夢寐

※これは、私がおっちょこちょいなばかりに、文学賞に出しそびれた4000字程度の短編小説です。


 暗闇に白い雪の欠片が混じる季節になると、決まって見る夢があった。それは、歳の市の日に僕が立っていた、ある道の夢だ。夢が見せるこの記憶の意味を、僕は痛いほど理解していた。そこに立って、音もなく、ただ冷たく降りしきる雪を被りながら、今夜も過去と現在が行き交う冬の夜を僕はただ静かに眺めている。

 特別寒かったその年、僕はまだ中学生だった。刻々と藍色に飲み込まれる寒空の下、ほんのりとオレンジ色に染まる一帯の中で、僕は先輩の姿を探していたのだった。
 その先輩が高校生であること以上、僕は彼女については何も知らなかった。ただ毎日同じ道ですれ違うだけの仲である。名前も知らない人なのだ。だけども向こうから、自転車に乗った先輩が歩いている僕の横を通り過ぎるたび、僕は振り返りたい衝動に駆られてしまう。そして、先輩が残した風が特別冷たい日には、こう思わずにはいられないのだ。今日はきっと雪が降る、と。


 その日、僕は指輪をポケットに隠し持っていた。僕の少ない小遣いでも買えたその宝石が本物であるはずはなかった。指輪には、りんご飴のようなこってりとした深い赤色の宝石がついていた。
 人々が吐き出す息と、ジュウジュウと音を立てて立ち昇る屋台の煙が、寒空の下で真っ白な靄になり、夜店の灯りを淡く包み込んでいる。裸電球の強い光の下で、眩しい色彩が輪郭を描いていた。ギラギラと光るりんご飴、赤い毛氈にばら撒かれた陶器の猫たち、熊手から溢れて輝く指物。色とりどりの輝きを横目に見ながら、僕は黙って雑踏を進んだ。暖かい蒸気の隙間から冷え固まった空気が時折強く吹き込んでくる。四方から漂う食べ物の匂いが空腹の僕を誘惑していた。僕は手袋を取り、少しかじかんだ指先でポケットの中でおもちゃの指輪をコロコロと弄んでた。


 どのくらいの時間歩き回っていただろうか。僕は急に雪を感じた。
 背後から迫りくる雪の予感。僕は振り返った。
 白熱球の灯りは赤色のマフラーを照らし、反射した赤色の光が少女の顔を照らす。薄い運動靴の底に染み出る冷たさは雪の予感。賑やかな話し声は冷たい空にふわりと浮かび、僕の世界に響いているのは雪の音。わずかに開いた口から白い呼吸。
 二人の目は確かに合った。それは一瞬のことであったが、僕にとっては永遠の時間のようだった。先輩の髪の揺れも長い睫毛の瞬きも、僕の口の動きも人混みに溶けた白い息も、壊れた映写機が見せるぎこちないコマ送りの如く。
 僕の言葉はとうとう声になることはなかった。先輩も声をかけてくることはなかった。先輩はそのまま人混みへと消えて行った。


 間も無く、雪が降り始めた。
 僕はそのまま、人混みの中で佇んでいた。先輩の背中が見えなくなるまでそこに立ちすくんでいたが、しばらくした後、黙ってその場を立ち去った。
 それから、二度と先輩と会うことはなかった。歳の市が終わってすぐ、彼女はこの街から引っ越してしまったのだ。
 そのことを知った日、僕は近所の川まで走って行き、ポケットに入ったままだったおもちゃの指輪を強く握りしめると、冷たい川に投げ捨てた。

 今夜も僕はたった一人、この道に立っている。
 僕は居るはずのない少女に話しかけた。
「僕のこと、知ってますか?」
 返事はない。音もない。ただ静かに雪が視界で舞い狂っている。僕は続けて言った。
「あなたに、伝えたいことがあるんです」
 僕がそう言い終えるや否や、僕の背中側からものすごい勢いで風が路地に吹き込み、地面の雪が一気に舞い上がった。目に入った雪の冷たさに思わず目を瞑った。厚いコートの隙間から凍った風が染み込んできた。

 しばらくじっと寒さに耐えた後、僕はゆっくり目を開けた。目の前に少女が立っていた。いつもと同じ展開であった。
 半開きの真っ赤な少女の唇から、椿の花びらがひとひら零れ落ちる。花びらはゆらゆらと揺れ、音もなく白雪の上に落ちた。
 次の瞬間、少女の口からものすごい量の椿が吹き出した。瞬く間にこの狭い道は花びらでいっぱいになり、少女と僕を中心に椿の渦が出来上がった。少女は少し笑いながら少しずつ椿の渦に飲み込まれていく。
 僕が何もできずにおろおろしているうちに、少女は完全に椿の渦の中に消えていった。渦の目は段々と小さくなり、僕も椿の渦に飲み込まれそうになる。ふと左側を見ると、小さな木戸があった。助かった。僕は木戸を押し開け、中にあった階段を駆け上った。
 椿の嵐が物凄い勢いで追いかけてくる。それを振り切るように僕は一気に階段を駆け上がった。踏み出すたびに段板がしなり、木屑を舞い上げながらぎしぎしと軋んだ。とっくに息はあがっていたが休むこともできず、そのまま僕はどこまでも続く階段を駆け上がった。ふと上を見るとドアがあるのが見えた。この階段はとある部屋に続いていたようだ。僕は押し寄せる花びらのうねりに飲み込まれまいと一段飛ばしで階段を登り、ドアノブを掴むと全力でドアを押し開けた。そして部屋の中を見るなり、僕の記憶の引き出しがこの部屋を知っている、と叫んだ。


 とても静かだった。床に溜まった冷気が靴下の中まで潜り込んでくる。床に脱ぎ捨てられた服、ベッドの上で山積みにされた漫画、紙屑だらけの勉強机、食べかけのジャムパン。部屋の全てが窓から差し込む月明かりに照らされて白く浮き上がっていた。見たことがあると思ったその部屋は、僕が最後に先輩と会った日の部屋だったのだ。

 いつもはここで夢が終わってしまう。
 本当は、夢がいつもこの続きの一切を僕に委ねているのを知っていた。僕がただこの続きを見るのを恐れて逃げているだけなのだ。
 夢が見せる記憶の意味を、僕は痛いほど理解していた。この夢は、あの道に立ち止まったままの自分を迎えに行けと言っているのだ。少女が去った、雪の降りしきる道に立ちすくんだままの僕自身を。

「私も知ってるよ、君のこと」
 突然、少女の声が聞こえた。僕は驚いて声の方へ顔を向けた。少女が窓枠に腰掛けながら、薄青の冷たい風を背に受けていた。窓の外は冷ややかな冬の空で、しんしんと雪が降っていた。
「ずっとあなたが言いたかったこと、私、聞きたいな」
 少女はふっと重心を背後に傾けた。「待って」という僕の叫びも虚しく、少女は冷たい夜空の中へ真っ逆さまに落ちていった。どうしたものか。考える間も無く、僕も次の瞬間、少女を追いかけて窓から空に飛び出していた。


 ものすごい勢いの風とともに冷たい欠片が僕の髪の隙間にまで入り込んでくる。僕は必死に手を伸ばし少女の手を取ろうとしたが、なかなか手が届かない。その時ふと、僕は指輪のことを思い出した。もし、今僕があの日に帰っているのだとしたら。あの指輪はまだポケットに入ったままのはず。
 僕は上着のポケットに手を突っ込んだ。プラスチックの指輪は、確かにあの日のままころころとポケットの中で転がっていた。見ずとも分かる、ちゃちな指輪だった。僕はかじかむ右手でその指輪をつまみ取り、左手で少女の手を取った。僕は指輪を取り出して少女の左手の薬指にそっと指輪をはめた。少女は黙ってそれを見ていた。金色の輪に大きな深紅の宝石が付いている。色のない空の中で指輪は唯一の色彩であった。
「これ、ルビー?」
 そう聞く少女の瞳には赤い光が映っている。僕も不思議と、その石が作り物とは思えないほど輝いているように感じた。指輪は紛れもなくおもちゃの指輪のはずだった。しかしその時、無数の真っ白な粒雪の中で強く色彩を持つその指輪は、誰が見ても本物のルビーの指輪のようだったのだ。
 

 底なしの冷たさが僕の末端という末端を凍らせていく。ともすれば先に落ちていってしまいそうな少女を離すまいと、僕は手に力を込めた。少女は少し驚いて僕の目を見つめ、白い息をふわっと吐きだした。同時に僕の口も勝手に動いていた。
「僕の、そばにいてくれますか?」
 空に触れた僕の言葉はすぐに凍り、氷の粒になってパラパラと夜の街へ降り注いだ。少女は目を丸くしてしばらく黙っていたが、僕の両手をぎゅっと握り返し、僕の目を見つめるとにこっと笑って言った。
「今ここで、抱きしめてくれたら」


 雪はしんしんと降り続いていた。地上にばらまかれた光の粒が、宙を舞う真っ白な雪を柚子色に照らしている。いつも夢に見るあの道が、遠くで光っているのが見えた。
僕たちは地を天に、天を地にしてゆっくり落ちながら、漆黒の空の中で仄かに色づいた雪を見ていた。それはまるで天に上る蝋燭の群れのようであり、天に帰る星団のようであった。夢であっても構わない。僕は地を仰いではあっと白い息をわざとらしく吐いてみた。そして、こっそり笑った。(了)

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