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短編小説 『夏の船』

(本作は、以前Twitterにて投稿したオリジナル短編小説『夏の船』を再校し、加筆修正を施したものです。)



【朝凪】

どこかの街の誰かさん へ

はじめまして。
この手紙を拾って、読んでくれたあなた。
風船に手紙をくくり付けて飛ばしたら誰かに届くかしら、とドキドキしながら、私はこの手紙を書いています。まるで少女マンガみたいだと笑って捨ててしまってもかまわないけれど、読んでくださったあなたがどんな方なのか、ちょっぴり気になるような気もします。差し支えなければ、この便箋の裏に書いてある住所にお返事を送っていただければ、私はとってもハッピーです。
お返事をいただけるなら、あなたがどんな方で、どんな音楽を聴いていて、どんな服が好きなのか、そんな話がしてみたいな。それで私は、こんな本が好きで、こんな花が好きで、こんな人だって話がしてみたいです。

どこかの街の、あなたに届きますように。


あなたの知らない街より

知らない街の君へ

初めまして。君からの手紙を拾った者です。
朝、学校へ行くとき自分は自転車に乗って登校するのですが、いつも乗っている自転車のカゴに割れた風船が引っかかっていて、とても驚きました。その風船を手に取ると、結び目のところに手紙が括り付けられていてさらに驚きました。手紙の中身を読んで、さらにさらに驚きました。
君には驚かされてばかりです。
風に乗って偶然届いた手紙に返事を書くなんて、正直かなり気恥ずかしいですがせっかくなので、こうして手紙を書いています。知らない土地の人と言葉を交わせるなんてちょっとすごいと思うし、自分のところに届いたのは運命みたいでワクワクしますね。

この手紙を送ってくれた君が幻滅しないように、先に謝っておきます。
自分は手紙を書くことに慣れてないし、言葉もたくさん知っている方じゃない。性格も口下手な方だと思います。ごめん。今だって手の横に国語辞典を置きながら、この手紙を書いています。
ガッカリされてしまうかな。賢いフリをしていた方がよかったかもしれないけれど、後からボロが出てしまう方が恥ずかしいかなって思って。
自分も君の、色々なことを聞いてみたいです。どんな色が好きで、どんな髪をしていて、どんな靴を履いていて、そんな話が聞いてみたいです。

それにはまず、君からの質問に答えないといけない。
さっきも書いたみたいに、自分は、口下手な人間だと思います。好きな音楽は、なんだろうな、Base Ball Bearとか、よく聴きます。あと、君が知ってるかは分からないけど、この前THE BOYS&GIRLSのライブに行きました。いい曲を歌うので、試しに聴いてみてほしいです。好きな服は、ファッションとか全然詳しくないので、特にないです。つまんない答えでごめん。

何を書けばいいかなって思いながら書きはじめたけど、意外と長くなってしまって自分でも少し驚いています。

改めて、手紙を送ってくれてありがとう。


君の知らない街より

少し遠くの街のあなたへ

まさかお返事が返ってくると思わなかったので、とってもびっくりしました。
丁寧に書いてくれてありがとう。
でも、「君の知らない街より」って書いても、封筒にちゃんと送り先の住所を書いてくださったから、もう知らない街の人じゃないんです。友人とふざけて飛ばした風船が海を渡って隣の県まで届いたんですね、びっくり。本当に運命みたいに思います。

自転車で学校へ行っているってことは、あなたは中学生か高校生か大学生か、少なくとも小学生じゃないのかな、だって、小学生は、みんなで歩いて学校に行くでしょう?あと、字がとても綺麗なので、高校生かなって思います。私には大学生の兄がいて、とっても字が汚いんだけど、それを注意すると「大学生はペンじゃなくてパソコンを使うからしょうがないんだ」って言われました。正直、その理屈はよくわからないけれどそうらしいので、あなたが高校生かどうかの答え合わせができたらいいな。

私は今年、高校生になりました。学校の友達と一緒に風船を飛ばしたんだけど、お返事が返ってきたのは私だけだったので、みんなに自慢したらみんな驚いていました。私もびっくり。お返事をくれてありがとう。

あなたは音楽が好きなんですね。音楽のことを書いている文字だけ、ちょっとだけ急いで書いたみたいに見えたので、そう思いました。どっちも聴いたことのない人だったから、聴いてみようと思って昨日ツタヤに行ってきました。Base Ball Bearは見つかったので、今その曲を聞きながら手紙を書いています。こういう曲はあんまり聞かないので、新鮮で楽しいです。THE BOYS&GIRLSのCDは探しても見つかりませんでした。今度CDショップで探してみようと思います。
あと、ファッションに興味がないようですが、どんな服を着ているかということは、意外と大切なことですよ?お母さんに選んでもらった服を着ていちゃだめです。だめですよ。
朝、タンスを開けたらカラフルな方が、一日がハッピーに過ごせるので、服に興味を持つことは大切です。

隣の県のオシャレガールより

海の向こうのシティガール様

さすがシティガール。大体のことを言い当てられていて、読んでいて顔が熱くなりました。
自分も今年、高校に入りました。なので、君とは同い年です。字がキレイって言ってもらえて嬉しいですが、それは君から届いた手紙の字があまりにもキレイだったから、いつもの倍くらい時間をかけて書いているためです。音楽の話をしている字で、もうバレてるかもしれないけど。

そうです、自分は音楽が好きで、実はギターを、少しだけ弾けます。歌は音痴なので得意ではないです。わざわざCDを借りに行ってくれたんですね。ありがとう。ボイガルのCDがなかったみたいなので、焼いたCDを同封しました。ぜひ聴いてほしい。
服について、本当にその通り過ぎて頭が上がりません。なのでさっき、学校帰りに本屋に寄ってファッション雑誌なるものを買ってみました。怖くてまだ読んでいません。母親に見つかったら笑われそうなので、今はベッドの下に隠しています。次に君に返事を書くまでには読めるように頑張ります。

君は字がキレイだし、キレイって漢字で書けるぐらい勉強のできる人だってことを知れました。あと、服が好きなことも。あと、結構言いたいことは言ってしまう人だってことも。そういうところが素敵だと思います。

ボイガルのCD聴いてみたらどうだったか、教えてほしいです。
自分も、ファッションのこと、少し勉強してみます。


北の国のオシャレ修行僧より

キレイな文章のあなたへ

そんなに褒められると照れてしまいますね。ありがとう。あなたが私を褒めてくれる言葉がとっても優しいので、あなたは優しい人なんだなと思いました。

ファッション雑誌を買ったことは大きな一歩です。でも、読まなきゃ。もし、ベッドの下に隠して私からの手紙を読むまで隠したことも忘れてしまった、なんてことだったら、もう。
でももしかしたら、そういうことに疎いあなたがあなたの年齢に合った雑誌を買っていなかったとしたら(ファッション雑誌には、対象年齢があるんですよ。表紙がスーツの写真とか、そういうのを買ってはいませんか?)大変な問題なので、裏にオススメのタイトルを追記しておきます。

送ってもらったCD聴きました。あなたからの手紙に突然登場した「ボイガル」という言葉。何かしら、と思いましたが、THE BOYS&GIRLSのことですね。ちゃんと先に言ってくれないと。でも、それくらい好きなんだなってことが伝わってきました。
聴いてみて、その感想は、なんというか、元気になります。ボイガルの曲を歌っている方の顔を私はみたことがないですが、きっとよく笑う方なんだろうなと思いました。あなたがどんな顔をしていて、どんな顔で笑うのかなって、そう思って聴いていました。
きっと優しい顔で笑うのかな。キレイな文章を書くあなただから、私の頭の中のあなたは、とっても優しい顔をしています。

あなたはギターが弾けるそうですが(すごい!)学校では、軽音楽部に入っているんですか? 私は学校では文芸部に入っているのですが、部室の窓を開けていると、よくギターの音と歌声が聴こえてきます。文化祭が近くなると、その音が少しだけ大きくなります。歌は残念ながら上手ではないけれど、楽しそうなので私はうちの学校の軽音楽部の隠れファンです。あなたの演奏もいつか聴いてみたいな。

ペンだこだらけのペンだ子より

文芸部の君へ

ペンだ子、とか笑ってしまうので、急にふざけるのはやめてほしい。思わず笑ってしまって、同じ部屋の妹に変な顔で見られました。ただ、君からの手紙を読むのはすごく楽しいので、君の言葉が好きです。文芸部に入っていると聞いて、とても納得しました。文芸部がどんな活動をしているのか、自分はあまりよく知らないんだけど、部活では作文とか詩とかを書いているんですか? 中学の頃、文芸部の人から冊子をもらって読んでみたことがあるんだけど、同い年の人がこんな文章を書けるなんてすごいなと思った記憶があります。

自分は軽音楽部に入っています。また言い当てられてしまいましたね。
軽音楽部では、ギターと、あとボーカルをやっています。ボーカルっていうのは、歌う人のことです。本当はギターだけが良かったんだけど、ボーカルをやる人がいなくて無理やりやらされています。上手くないって言ったのに。
でも最近、歌うのも少しだけ楽しくなってきました。今度ボイガルの曲をやります。キーが合わなくて大変だけど、やっぱり音楽は楽しいです。
大人になったら、音楽をやる人になりたいって、ぼんやり思います。
君は、大人になったら何になりたいですか? 総明な人だから、高校を卒業したら大学に行くのかな。

そして、自分はまた君に謝らないといけないです。
君のいう通り、ベッドの下に雑誌を隠して置いたら、置いておいたことをすっかり忘れてしました。君からの手紙を読むまで全く忘れていて、ベッドの下を探したら置いたはずの雑誌がなくて、家中探しても見つからず、泣く泣く母に聞いたら、「ゴミかと思って捨てちゃったわよ」とのことでした。
無念。君がオススメしてくれたものを、本屋で探してみようと思います。

軽音楽部の雇われボーカリストより

未来の音楽家さんへ

捨てられてしまった雑誌のこと、とっても残念で悲しいけど、ちょっぴり笑ってしまいました。ごめんなさい。家中を探し回っているところを想像したら可笑しくって。
あなたは私のことを、たくさん褒めてくれるけれど、こんなイジワルなところもあるなんて知られてしまったら、もうお返事を書いてはくれないかな。それはちょっと寂しいので、お返事を待っています。あと、ちなみに「聡明」という言葉、「総」ではなく「聡」です。それもちょっと可笑しくて笑ってしまったけれど、わざわざ調べて書いてくれた、その気持ちが嬉しいです。ありがとう

音痴だから歌は歌えないって言っていたけれど、ボーカルをしているってすごいことだと思います。(あっ、どんなに音楽に疎いって言っても「ボーカル」って言葉くらいは知ってます!)
もし、あなたが大人になって音楽を仕事にする人になったら、こうやってお手紙のやり取りをしていたことも歌になったりするのかな。とってもロマンチックで素敵ですね。もしそうなったら、私はハッピーだなって思います。

文芸部では、あなたの言うように作文を書いたり詩を書いたりしています。特に私は小説を書くのが好きです。先日、県内の大会みたいなものに、初めて自分で書いた小説を出してみました。再来週ぐらいには、その結果が出るみたいなので、きっと次にあなたに手紙を書くときには、どうだったか、その結果を伝えられると思います。
あなたは大人になったら音楽をやる人になりたいと、私に教えてくれたので、私もあなたに、私の秘密を教えちゃいます。誰にも言ったことのないことなので、実はちょっと今、手が震えています。
私は高校を卒業して東京の大学に行ってたくさん勉強して、大人になったら小説家になりたいって思っています。
それが私の将来の夢です。改まって文字にすると、少し恥ずかしいですね。
いつか、私の本とあなたの音楽が出会うことがあれば、素敵なことだなって、思います。でも、偶然手紙を拾ってこうやって文通をしているぐらいなんだから、そんな奇跡ももしかしたら起こるんじゃないかって思ってしまいます。

ちょっと長くなってしまいましたが、今回はこれくらいで。
照れ臭いのでさっさと送ってしまいます!

未来の小説家より

拝啓 憧れの文芸少女へ

君の小説家になりたいっていう夢、すごくステキだと思います。君の言葉は本当にステキだし、なんていうかステキって言葉しか思いつかなくて、自分が不甲斐なくなります。君が一歩踏み出して挑んだ大会で良い結果が出るように、自分も祈っています。本当にすごいよ。尊敬します。

実は来週、君の街を訪ねることになりました。
というのも、部活で使っている機材が壊れてしまって、近所の楽器屋に行ったら「こんな田舎の店にはそんなもん置いてないよ!」と一瞥されてしまい、聞くところによると、君が住む街の楽器屋でその機材が取り扱われているらしいので、来週末に君の住む街へ行きます。今日学校の帰りに、友人とフェリーのチケットを買いに行きました。君が、本当に自分に会いたいかどうかは分からないし、ちょっと不安なのでとりあえすその便の時刻だけ裏に書いておきます。

目印は、多分ギターケースを背負ってる人なんて、そうそういないと思うので、すぐ分かると思います。

君が、君の大切にしている秘密を教えてくれたから、自分も君に秘密を教えたくなってしまいました。会いに来てくれたら嬉しい。
君の小説の結果もそのときに聞けるかな。楽しみにしています。

君に伝えたいことはたくさんあるんだけど、会えたときにとっておこうと思います。

敬具



【空蝉】

何度も鏡の前で前髪をチェックして、服はお母さんに借りた水色のワンピースを着た。
本当は、本棚にあるファッション雑誌のモデルさんみたいな服とピンク色のリップが欲しかったのに、急に会いに来る、なんていうもんだから、お小遣いが足りなかった。急にお小遣いの前借りなんて頼んだら、きっとお母さんは「カレシができたんじゃないの?」って茶化すだろうし、お母さんはそういうことすぐお父さんに言っちゃうから、だからリップは買えなかった。


あなたに話さないといけないことを、歩きながら反芻する。
手紙を書いてくれてありがとうってこと、Base Ball Bearの曲は私も好きだってこと、実は私はギターに触ったことがないってこと、小説の結果はまだ届いていないってこと、あなたは素敵な人だってこと、運命みたいに出会えてすっごくハッピーで嬉しいってこと

大丈夫、ちゃんと覚えてる。
自然と早足になってしまっていて、でも頬に当たる海風が心地よかった。いつも騒がしいと感じる蝉の声だって、賑やかなコーラスに感じる。ワンピースの裾が揺れて、蝉たちにあなた達もハッピーなのね? なんて言ってしまいそうになる。小さい頃テレビで見た映画の、プリンセスが舞踏会に誘われて、綺麗な靴を履いて、王子様に会いに行く、そんな姿を思い出してしまう。

プリンセスを足止めする古びた信号機が赤い光を放つ。早く、早く会いたいのに。信号待ちの時間すらもどかしい。
もうすぐあなたが、この街に来る。

自然に上がる口角を隠しもせず、私はターミナルへ向かった。


ガラスの自動ドアをくぐると、効きすぎた冷房が素肌を刺す。私は小さく身震いしてから、正面の電光掲示板を見た。あなたを乗せたフェリーはもう到着しているみたいだった。

急に、お腹の奥の方がズキズキと痛んだ。ちょっとだけ吐き気もする。
さっきまで早く会いたくてしょうがなかったのに、いざあなたがこのターミナルのどこかにいると思うと、緊張で死にそうになる。
(このまま帰っちゃおうかな)
なんて考えが過ぎって、勢いよく首を振った。

『君が、君の大切にしている秘密を教えてくれたから、自分も君に秘密を教えたくなってしまいました。会いに来てくれたら嬉しい。』

手紙の言葉を思い出して、小さく息を吐く。

身を隠すみたいに小股で歩いて、すれ違う一人一人の持ち物を見た。
あれも違う、これも違う。私だってちゃんとギターを見たことがあるわけじゃないけれど、ちゃんと軽音楽部の子にお願いして、どんなものかは見せてもらったんだから。



お世辞にも広いとはいえないターミナルを何度か往復して、もしかして私は日付を間違えてしまったじゃないかしらと電光掲示板の日付を確認しようと顔をあげると、乗船口と到着口、その間にあるベンチに立てかけられている、黒いカバーに入った1メートルちょっとぐらいの長いものを見つけた。

一瞬で分かるそれは、私が探していたものだった。

その横には、大ぶりのリュックを背負って制服を着た姿があって、
ギターケースに添える手は大きいけれど細くしなやかで、肩の上くらいで切り揃えられた髪は、晴れた夜みたいに黒くて、裾から伸びる脚は陶器みたいに白くて滑らかだった。

見慣れない制服を着た女の子がベンチに腰掛けている。
その姿は、確かに綺麗だと思った。

ギターを持っている人が、あなたの他にもいたのね、という考えが、彼女が手に握っていた赤いゴム風船の残骸に掻き消される。

『君が、君の大切にしている秘密を教えてくれたから、自分も君に秘密を教えたくなってしまいました。会いに来てくれたら嬉しい。』


(手紙では伝わらないあなたの秘密って)


そこまで考えて、私は来た道を引き返していた。プラスチックの嫌な音が床を踏むたびに鳴る。その音から逃げるみたいに私は足を早めた。
ターミナルを走っていく私を、物珍しそうにみんなが見る。
その視線もどうでもよくなってしまうくらい、私はただ走っていた。

自動ドアをくぐると、蒸し暑い空気が汗ばんだ首元に張り付く。蝉の声が耳に刺さる。


私はあの時どうしたかったんだろう、と夏になると思い出す。
『あなた』が、私の思い描くような男性だったら、どうするつもりだったんだろうと。



【薫風】

キーを叩く音が、昼間の騒がしいオフィスに響く。数字の羅列を模る書類がデスクの端に山積みになっている。倒れそうな紙の層から器用に一枚を抜き取って、また十のキーを軽快に鳴らした。

出版社の経理部で働き始めて、そろそろ5年になる。

あの頃憧れていたのは、二十六のキーを打って言葉を紡ぐ仕事だったけれど、今では「まぁ、こんな人生もアリかな」とか、そんなことを飲みの場で口にするようになってしまった。
それでも、居酒屋の有線から流れる音楽にギターの音色が混ざると、少しだけ酔いが覚める気がした。


あの日の翌日に、小説の結果を掲載した雑誌が発売された。私は学校帰りに本屋に駆け込んで、そのページを隈なく見たけれど私の名前はどこにもなかった。

それから、地元の大学に進学してその大学で出会った先輩のおかげで、この出版社に就職した。所謂コネ入社というやつだ。小さな会社だから、こんなふうに入社する人がほとんどで、先輩も後輩も同期もなんとなくなあなあなこの会社のことが、私は結構好きだった。


編集でも作家でもない、経理という仕事に対するコンプレックスも、過去の自分に対するコンプレックスも、いつの間にか薄れて、その頃にはもう電卓を扱うのも随分上手くなっていた。
諦めとかそういうのではない。ただただ体に馴染んでいく時間は、恐ろしいほど心地よかった。


「書簡体小説に挑戦してみたいんです!」

パソコンを挟んだ向こう側から編集と作家のやり取りが聞こえる。その熱のある声量が周囲の視線を集めてしまって、声の主は申し訳なさそうに頭を掻いた。汗ばんだその首元には、日焼けの跡が残っている。


私はあの時どうしたかったんだろう、と夏になると思い出す。
それは、後悔でも回顧でもない。
盲目な夏に、私は今も恋をしている。








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