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北大博物館が理学部校舎だった頃

写真家の幡野さんが、北大博物館の写真をnoteにあげていらっしゃった。

あまりの懐かしさについ、昔の話を書きたくなった。

今、博物館として使われているこのレンガ造りの建物は、わたしの在学中は「理学部」の校舎だったものだ。
大学生の私は、そこに通ったり、通わなかったりして、なんとか卒業したのだった。

旧理学部の建物は3階建てで、エレベーターもエスカレーターもない。
エントランスを入ると、正面に階段があり、最上階まで登ると、右手が在籍していた「地質学鉱物学教室」だった。

中二階に理学部図書館、中三階にトイレがあったと記憶しているが、もしかすると逆だったかもしれない。

地学は基本的に、フィールドワークができないと、お話にならない山男系の学科である。
超インドアで、平地を歩くのだって嫌いな私がそこに入ったのは、単に成績の都合である。

当時の北大は、「理I=物理系」「理II=化学系」「理Ⅲ=生物系」とざっくりとしか学びたい分野を決めずに入学し、入学後の成績の良い人から自分の好きな学科を選んで進めるというシステムを採用していた。

「なんちゃって理系」の人に多いのが「生物の成績が良いから、自分は理系だ」と思い込むことだ。

今ならわかる。
これは明らかなまちがいだ。

今は、理系を選択したら、どの分野でも必ず、数学と物理と化学が絡んでくる。
それらを理解せずに、理系の学問を続けられる人なんていない。
生物だってミクロの世界は、物理と化学だ。

それを知らずに、意気揚々と生物系に進学した私は、数IIの必須単位を落として留年し、当然成績も振るわず、進路の希望は全滅した。
そうして、高校では全く勉強したこともない「地学」の世界に飛び込んだというか、飛び込まされることになったのだった。

地学の勉強は、当初、全く好きではなかったが、古い理学部の校舎はロマンティックで好ましかった。
天井の高さも、廊下に溢れる鉱物標本の山も、白衣と呼べないほど汚れた白衣を着てウロウロする院生たちも、いかにも「古き良き時代の学問の場」という風情があった。

間違って、理学部に入り込んでくる観光客のお姉さんたちに、偏光顕微鏡で石の薄片を見せてあげて
「綺麗!万華鏡みたいですね」
と驚かせるのも好きだった。

そう。
地学には「美」の要素があったから、理系人間ではない私でも、続けられたのだと思う。
鉱物の結晶も、化石たちも、手に取れる「美」だった。

もし、私が数式と実験だけの学科に進学していたら、留年を重ねて卒業できなかったはずだ。
数学に「美」を見出すことは、私にはついにできなかった。

さて博物館の話。
私たちの在学中から、理学部校舎を博物館にする、という話は聞いていた。

今調べてみたら、博物館構想自体は1966年に検討が始まったものらしい。
1999年に文科省の認可がおりて、2001年に全体の一部が改修され公開された、とある。
現代にあって、33年待ちとは、なんともスローペースな話である。

なんにせよ、私の卒後約10年で、あの趣きのある建物は、博物館に生まれ変わっていたのだった。

「ここは今日から博物館です。お前ら出てけ」
みたいな、強制的立ち退き命令があったわけではないと思うが、当時の在学生たちは、あの何百箱もあった鉱石の標本や、過去の論文雑誌や、コピーの束を、どうやって運んだのだろうか。
想像すると心から「在学中のことでなくてよかった」と思う。
きつい肉体労働に嫌気がさして、ますます学校から足が遠のいていたことだろう。

博物館には、アイヌ民族資料など、様々なジャンルの展示があるようだ。
敦賀にいる間に、新日本海フェリーで北海道に渡り、あの懐かしい校舎を訪ねてみたい。

**連続投稿468日目**

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