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別府「駅前高等温泉」が最高な理由を語ってみた

「駅前高等温泉」に出会ったのは、偶然だ。

我ら夫婦は、2022年末、終の棲家を探す旅をし、別府を訪れていた。
ところが、着いたその日に夫が海岸で転び、松葉づえが必要なほどのけがをしてしまった。

宿泊先を格安にした分、温泉はゴージャスに巡り湯などしたいなと、事前に情報を仕入れていたのだが、夫が温泉に行けないのでは、一人で車を借りてまで行くわけにもいかない。

そこで、ホテルのフロントで
「ここから一番近い温泉は、どこですか?」
と聞いて教えてもらったのが、「駅前高等温泉」だったのである。

そう言えば、駅からホテルまで緩やかに下ってくる坂道の右手に、モダンなとんがり屋根の建物があった気がする。
あそこなら近い。
湯冷めすることもなさそうだ。
別府一泊目の夜、私は、高等温泉に一人でかけた。

引き戸をがらりと開け、左手の券売機で入場券を購入する。
入湯料は200円、信じられない安さである。
さすが温泉天国・別府市。
お湯は「ぬる湯・あつ湯」の二種類があるらしい。

「あつ湯」は43~44℃、「ぬる湯」は40~41℃。それぞれ源泉も異なり、「あつ湯」は弱アルカリ単純泉、「ぬる湯」は中性の単純泉となっています。

「初めてなんですが…」
と番台に声をかけると、
「じゃあ、ぬる湯がいいよ。あつ湯は、ほんとに熱いから」
とおすすめされた。
長く浸かれる湯がいいので、それに従う。

入場券を番台に置き、靴を鍵のないロッカーに入れる。
とんとんと階段を2階に上がると、4、5人入ればいっぱいになりそうな細長い脱衣所があった。
かごを使うタイプの脱衣所で、貴重品などはあらかじめ、下のコインロッカーに入れてくるようにと書いてある。

意表を突かれたのは、脱衣所の左手の壁が、胸の上くらいの高さから天井まで窓になっており、開け放たれていたことだった。
目の下5mほどのところに、浴槽が見える。
これから入ろうとしている温泉の全体像(というほど広くはない)が見わたせる。

「こんな作りになっていたら、湿気が上がってきて、すぐにカビたりしそうなものなのに、なんだか、ここは湿度も低いし涼しいなあ」
不思議に思っていたが、服を脱いで、洗い場に向かう階段を下りている途中で、その理由が分かった。
天井近くに、大きな窓が開いているのだ。
外の冷気がひんやりと天井から流れ込み、洗い場もエアコンの効いた夏の室内のように心地よい。

これはいい、と思った。
湿度が高いところが嫌いな私は、どこの温泉に行っても、露天風呂を使うことが多い。
顔より上に、高温の蒸気がまとわりついてくると、それだけでのぼせてしまうのだ。
何より、気持ちが悪い。

けれども、露天風呂は、季節によっては地獄のように寒いし、お湯の温度も外気で冷めていることがあったりして、出るに出られなくなることもある。
大晦日に近い本日、九州の別府市であっても夜の温度は10℃を下回っている。
この状態で露天風呂という選択肢は、最初からなかった。

その点、高等温泉の中は、時折、開いた窓から冷たい風が入るものの、湯の湿度と熱気と、外気がちょうどよく混ざりあって、寒さを感じず、湿気もない。
最高の入湯環境だろう。

10段少々の階段を降りると、洗い場がある。
蛇口とシャワーと鏡がついているのは、1か所のみ。
スペースだけなら、3人が同時に体を洗えそうなほどの広さだ。
タイルの壁や床は、湯に含まれる鉄の色なのか、目地が茶褐色に染まっており、歴史を感じる。
明るい清潔な温泉が好きな人にはおすすめしないが、ひなびた古い温泉が大好物なら、きっと気に入るはずだ。

先客が3人、思い思いに髪や体を洗っていたので、私はかけ湯だけして、まずは、脱衣所から見えた浴槽にそっと入った。
案外、熱い。
「ぬる湯」のはずなのに。
この温度では、長時間は入れないな、と、もう1つの浴槽に移動する。

脱衣所は、浴室の上にせり出すように作られており、その直下の、上から見えないスペースに、3方を壁に囲まれた薄暗い浴槽があったのだ。
いや、正確には「4方が壁に囲まれていて、1部が出入りのために開いている浴槽」と言った方がいいだろうか。
浴槽と洗い場を分ける、ヒノキの材は、長年の使用で、すでに傷んでぼろぼろだ。
天井に頭をぶつけないように少しかがんで、それを越える。
その1mほど開いた隙間から入ると、こちらからもあちらからも見えない、隠れ家のようなお湯に浸かることができるのである。
これが、最高に気持ちよかった。
お湯の温度、薄暗さ、湿度、すべてが完璧だった。

あまりに気持ちよくて、うつらうつらしていると
「ほーい」
と声がかかる。
先客である、私よりご年配のお姉さま方が、心配して覗いてくれたのだった。
「そっち、ぬるいでしょ。こっちにおいで」
「ありがとうございます」
熱い方の浴槽に移動して、しばらくお話を聞く。

嫁いできてから、もう、50年もこの温泉に通っているので、とても健康で、風邪ひとつ引いたことがないこと。
感染症対策で、しばらくここが閉まっていた時は、おかげで体調がいまひとつよくなかったこと。
別府に生まれて本当によかったと、温泉に入るたびに思うことなど。
観光大使かと思うほど、別府を推されてしまった。

でも、きっと、あれが本当の気持ちなのだろう。
別府に住んでいる人たちは、別府が大好きで、自分のお気に入りの温泉を持っているのだろう。
私も、別府に住むことがあれば、絶対この「駅前高等温泉」に通い詰めると思う。

お姉さま方が帰られた後、ひとりになった私は、薄暗くてぬるい湯に入り直し、あおむけに浮かんでみた。

ぽこ……ぽこ……

蛇口がないので気づかなかったが、浴槽内のどこかにお湯の湧きだし口があるようで、時折、空気の泡がはじける音が聞こえる。

ぽこ……ぽこ……

一定のリズムで聞こえる音。
ほの暗い隔絶された空間。
体温とほぼ同じ、お湯の温度。

目を閉じて浮かんでいると、どこまでが自分の体で、どこからがお湯なのかわからなくなってくる。

脳内にわだかまる、さまざまなものが、すべて、湯に溶けだしていくような感覚に襲われる。

「胎内回帰願望」なんてものが、自分にあると思ったこともなかったが、もしかして、これがそうなのかもしれない、とぼんやり思った。
どこまでも広がっていく「自分の体の万能感」にトリップした別府の夜だった。

もちろん、2日目の夜も「駅前高等温泉」に行ったことは言うまでもない。
貸し切りになるよう、遅い時間を選んでいったので、たっぷり1時間、温かい洞窟の中にいるような、駅前の秘湯を堪能してきたのだった。

**連続投稿358日目**

#温泉


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