「宝石の国」に込められたメッセージとは何だろう?
本作は、月刊アフタヌーン誌上で連載中の「宝石の国」に関する考察である。ネタバレを多く含むため、未読の方は「宝石の国」読了後に読むことをお勧めする。
市川春子が抱えるテーマ
不思議な生物と人間との共生を切なく描く天才、市川春子の初連載作品が「宝石の国」である。
雑誌連載時から話題になっていたが、2017年のアニメ放映以降に多くのファンを生み出し、その独自の世界観に対する考察も多数出ている。
謎の多さでは、「エヴァンゲリオン」にも引けをとらない作品だ。
市川春子作品には、全てに共通した想いがある。
「宝石の国」にも、人間と姿かたちは似ていても、その在り方が全く違う三種の生き物が登場する。
これぞ市川春子ワールドの集大成といった趣の、隔たりとコミュニケーション不全が展開する物語なのである。
「宝石の国」概要
最初は、美しく永遠の命を持つ宝石たちが悪と戦う「美少女戦士もの」なのかと思っていた。
ところが、彼らは「金剛先生」と呼ばれる僧形の存在(以下、金剛)の元、一つ屋根の下で学び暮らしている。群像劇の「学園青春もの」要素もある。
その上、不老不死の宝石たちは、死ねないことで、劣等感、罪悪感、後悔や嫉妬など、ネガティヴな感情を数百年分もため込んでおり、解決できない「ドロドロ愛憎ドラマ」の味付けもなされている。
どう読めばいいのか分からず、混乱しながらも物語に引き込まれていくうちに、可愛いだけで全く何の役にも立てずにいた主人公のフォスフォフィライト(以下、フォス)は、
アクシデントでどんどん体の一部を失い、別のもので補ううち、
今やこんな姿になってしまって、大好きだった金剛に「壊れろ!」と迫っている。
主人公が成長して行く物語は多々あれど、見た目がここまで変化する物語を私は知らない。
フォスの変化は、もはや妖怪変化(へんげ)のようで痛々しい。
これを成長物語と呼んでいいのか?
優しく明るかった性格もどんどん変わってゆき、仲間から孤立していくフォスに感情移入できなくなった離脱組の読者は多いと聞く。
これのどこが友情の物語なのか?
最近は、読むのが辛い鬱マンガの代表となってしまっている。
それでも私が「宝石の国」を追いかけづづけているのは、この特異な物語の中に隠されたメッセージを解読したいからだ。
作者の市川春子さんは、何を伝えたくてこの話を作ったのだろう?
仏教と「宝石の国」
すでにいろんな方が指摘されているように、作者の市川春子さんは仏教系の高校出身で、三年間、みっちり仏教を学んでいる。
したがって「宝石の国」には、仏典をベースにしたと考えられる設定が多い。
手足頭部を失い、体の半分以上が自分とは別のものになってしまったのに、それでもまだ自分を失わずにいるフォス。
それは、仏教のこの逸話を思い起こさずにいられない。
この逸話が伝えたいのは、「自分という存在の核は、果たして何なのか?」ということだ。
体の全パーツが交換されても『自分』は残った。
では「心」こそが『自分』の正体なのか?
けれど、「心」は体よりももっと変化が激しいものだ。
人は気分に引きずられるし、インプットする情報によって、考え方、感じ方はいかようにも変わる。
常に変化し、昨日と違う体と心で生きているのに、これを同じ『自分』だと思うその執着こそが、自我(=自分)の正体だというのである。
体も心も誰より変化させられ、それでもなお「フォスであること」をやめられない主人公は、我執の虜として描かれているのである。
死なない宝石たちと「死」の意味
ではその、フォスを取り巻く「宝石の国」という環境は、どのようなものなのだろうか?
それを紐解くには、このインタビューが役に立つ。
割れてちいさな破片になっても組み立て直せば再生し、光を糧に生きている美しい宝石たち。
生老病死の苦痛がない中で生きていける、最高に幸せな存在に見える。
上のコマは、フォスとアドミラビリスの王との会話である。
かつて地球に生息していた人間が滅亡し、『骨=宝石』『魂=月人』『肉=アドミラビリス(軟体動物)』の三つに分かれて再生したその世界で、「肉」の代表が、フォスに「死ぬってどういうこと?」と質問され、こう答えるのだ。
死ぬからこそ、生が価値あるものになる。
死ぬことができない宝石たちは、美しくても、強くても、それらの個体差は些事に過ぎない。
すべて等しく無価値な存在なのである。
宝石も月人も、捕食と生殖から解放され、どちらも永遠に生き続けることができる種族だ。
アドミラビリスは、壊滅した地球の貧弱な海で、食べ物に困って共食いをするほど、種の存続に窮している。
宝石・月人・アドミラビリスの三族の中で、もっとも下等で、もっとも退化し、傍目には一番不幸に見える。
けれど「死ぬことができる=生きる苦しみから逃れることができる」というその一点において、彼らは最も幸せな種族なのである。
「飢えを感じ、痛みを感じ、死ねば腐ってなくなる肉体を持つことこそが、永遠不滅よりもはるかに価値がある」。
――人類が求めてきた不老不死へのあこがれに対する、アンチテーゼがここにある。
救済の時は訪れるのか?
永遠の生が与えられたせいで、救われることのない月人と宝石たち。
では彼らは、いつか誰かによって救われる時がやってくるのか?
連載当初から、宝石たちを狩りに来る月人たちの出で立ちが、「来迎図」にそっくりだという指摘があった。
「来迎」とは何かというと、Wikipediaではこう説明されている。
つまり、「宝石たちが極楽浄土へ行くために、月から迎えに来るのが月人たちである」という見方である。
優し気な仏の出で立ちで「お前らを今から極楽に連れて行ってやるぜ!」と攻撃を仕掛けてくる、何とも悪趣味な狩人たちだと、私も思っていた。
ところがここで、数字に着目してみると、見え方が変わる。
来迎図に描かれる仏の数は、阿弥陀三尊(3人)と25人の菩薩で、合計28人というのが、決まりらしい。
しかしながら、月人たちがやってくるときの人数は、28人とは決まっておらずまちまちである。
が。
宝石たちの人数は常に一定で、誰かが月にさらわれれば新たに宝石が生まれ、必ず28人をキープしているのである。
ここから先は、完全に私の妄想である。
この抜き書きは、アニメ版「宝石の国」の監督である、京極尚彦が、原作者の市川春子からその設定について話を聞いた時の抜粋だ。
ここからもわかるように、宝石たちは喪服を纏い「弔う側」の立場にいる。
狩られ、破壊され、弔われる側にいると思われていた宝石たちは、実は、28人で月人を極楽に連れて行き、彼らを弔うために存在していたのである。
月人たちのあの悪趣味な戦闘コスチュームは、それを思い出せと、金剛に訴えるためのものだったのだろうか。
実際、宝石たちが月に来てからというもの、月の技術はますます進歩し、粉になった宝石たちから魂を取り出して、月人として再生させることが可能となった。
つまり、月にいる三族たちは、肉も骨も捨て去り、みな魂のみの存在となったのである。
残るは、1万年後、金剛から祈りの力を引き継いだフォスが、月人の魂を無に帰すよう祈るだけである。
実は、この「1万年」という数字にも気になるところがある。
それは、この金剛のセリフである。
彼の言葉から、本来、フォスが機能するようになるまでには、50億年の歳月が必要だと想定されていたことが予想できる。
50億年後に衆生を救うと言えば、もう、この方しかいないだろう。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは「釈迦の死後56億7千万年後の世に降りてきて釈迦に代わって人々を救う未来仏」だ。
釈迦の救いに漏れた人たちを救いにやってくるとされ、現在は兜率天(とそつてん)に待機中である。
フォスは、壊れて機能しなくなった金剛(釈迦)の「救い」に漏れた月人たちを救済するために、現在地球にて弥勒菩薩となるべく待機中なのだ。
しかし、そんなに簡単にうまくいくとは思えない。
孤独に蝕まれたフォスの狂気が、ハッピーエンドをもたらすまでに、まだまだいくつもの波乱があることだろう。
何とも救いのない結論で申し訳ないのだが、エクメアの考える「金剛に祈らせる」「フォスに祈らせる」などの「他力本願」な姿勢で、月人の問題が解決するとは全く思えない。
金剛が生まれた宝石たちを愛したが故に、執着が生まれて壊れてしまったように、1万年の孤独がフォスにもたらすものは、仏の慈悲などではないだろう。
一万年分の恨みと執着がもたらす力が、今後何を引き起こすのか。
ますます目が離せない。
**連続投稿153日目**
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