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語る資格

ライターになる前の15年弱、子育て支援、自閉症支援の活動に関わってきた。
そこで学ばせてもらったおかげで、子育てや自閉症支援については、何も知らない人たちより、多少は語れるんじゃないかと思っている。
ただ、王道の知識はあっても、それが実践できるか、できていたかは、別の話だ。

私は、自閉症支援のプロの話を、かみ砕いて翻訳したり、知らない人に広げたりするのは得意だと思っていたけれど、実際自分が支援の現場に入って働いたことは一度もない。
だから、発言できるバックボーンがないような気がして、あまり大々的には語れなかった。
ほそぼそと講座を開いていたけれど、私より詳しい人はいくらでもいるだろう、とずっと思ってきた。

子育て支援についても、自分の子育ては2人しか経験していないし、それ以外は、ほぼ未就園児としか関わっていないので、もっと大きな子どもたちのことはよくわからない。
それに、子育てについて発言してもいいのは、児童精神科医や、教師、保育士など、ずっと現場にいる人だろうという気持ちもある。
ここでも、上には上がいるという意識があって発信の邪魔をした。

つまり、「あなた何様?どうしてあなたがそれについて語れるの?」というツッコミに対して、堂々と「私はこういう者です」と言えるだけの何かを持っていないため、発言するのが怖いのだ。

同じことは、好きなものに対しても言える。
例えば、私は先日、「たま」について、noteにその愛を語ってみた。

これは、「好きなものについて語り合うイベント」の中で話すつもりで書いた原稿だ。
私なりの愛をこめ、これからたまのファンになってくれる人が増えるといいなと、彼らを紹介するつもりで書いた。
「みんなは、たまを知らないでしょう?私は知ってるから教えてあげるね」という前提で書いたのだ。

しかし、翌日のイベントには、ものすごくコアなたまファンの方が来てくださり、私は、彼女の語る愛の深さに終始圧倒されて、何も言えなくなってしまったのだった。
たとえ、たまのメジャーデビュー当時から、付かず離れず30年ファンを続けていても、現役でライブを追いかけ、今も新鮮な気持ちで曲を聴き、その世界に日々思いを馳せている愛の深さには敵わない。
私は発言者であることをやめ、彼女の聴衆の一人になった。
自分で勝手に「私には、たまを語る資格なし」と判断して降りたのである。

ネットを見渡せば、テレビドラマについて、映画について、読んだ本について、アーティストについて、誰もが好きなように自分の感想を発信している。
私だって、それらについて書くこともある。
けれど、「上には上がいる」と思った瞬間にすくんでしまう。
書いたものを、非公開にし、削除したくなる。
別に誰かに「にわかは引っ込め」と言われたわけでもないのに。

なぜすくんでしまうのか。
それは、そこに「知っている」と「知りたい」の差があるからだと思う。

例えば、以下の文章。
ご存じの方も多いと思うけれど、JR東海が作った1989年のシンデレラエクスプレスのCMに登場する牧瀬里穂さんについて書かれた文章だ。

これを読んで、「こいつ誰だよ?何の資格があって、牧瀬里穂について語ってるんだよ?」と反感を持つファンは、いないだろう。
読みながらどんどんCMの世界にのめり込み、牧瀬里穂がどういう経緯でクリスマスイブに駅の構内を爆走することになったのか、知りたくなって最後まで読んでしまうはずだ。

CMを作った人が「実は、こういう設定で作ったんだよ」と暴露話を語っても、ここまで面白くはないだろう。
ファンである書き手の、熱い妄想と冷静な調査が、この話を面白くしているのは間違いない。
読み手は、書き手の「知りたい、わかりたい」熱量に惹かれるのだ。

つまり、私が「取り下げたい、削除したい」と思う文章には、熱量がないと自分が知っているから、残しておきたくないと思うのだろう。
知識を羅列しただけで、「知りたかったこと」を調べて書いていないから、人に読んでもらう価値無し、と無意識に判断してきたのに違いない。
「語る資格」だと私が思っているものの正体は、対象をどれだけ調べ、深堀りして考えたか、ということなのだろう。

今、続けている毎日noteの中で、「これなら語る資格アリ」と自信をもって公開できる文章を書くのは、むつかしいかもしれない。
でも、そういう文章を、時々にでいいから、ちゃんと書き残したい。

**連続投稿449日目**

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