「たま」への偏愛を語ってみる
敦賀の駅前公設書店「ちえなみき」で、明日(というか、もう今日)「他人の頭の中を面白がる会」を開催する。
前回まで「推しマン」という、自分の推し漫画を紹介するイベントのつもりでやっていたのだけれど、ふたを開けてみたら、漫画だけに限らず、いろんな『スキ』を持ち寄って話した方が面白かった。
ので、名前を改めたのである。
が、改めたのはいいけれど、私は今回、日々の雑事にまぎれて何のネタも仕込んでいないことに、ついさっき気付いた。
まだ、来週くらいのことだと思っていたのに。
そこで、今回のnoteは、明日(だから今日だってば)の発表原稿のつもりで書くことにする。
今回私が推すのは、うたを歌う人だ。
出会ったのが24歳の時だから、それから33年間ずっと好きで、ずっと付かず離れず追いかけてきた。
「たま」の知久寿焼(ちく・としあき)さんこそが、私が死ぬまで添い遂げたい人なのである。
今となっては、「たま」を知ってる人の方が少ないと思うので、一応説明すると、「たま」とは、1989年から約一年間、TBSで深夜に放送されていた「三宅裕司のいかすバンド天国(通称 イカ天。アマチュアバンドの登竜門番組。今で言うと「ゴッドタレント」みたいなもの)」で一躍メジャーに飛び出した4人組バンドである。
知久さんは、右から2人目、アップだとこう。
彼らは、「歌で天下を取ってやる」とか「日本の音楽シーンを変えてやる」といった、たいそうな望みはもっておらず、「テレビに出たら、今よりちょっとだけライブにお客さんが来てくれるかも」という、つつましい願いとともにイカ天にチャレンジし、1週目、知久さん作詞・作曲の「らんちう」を歌った。
たまファンは、今もたくさんいて、当時のビデオをYouTubeに次々とアップしてくれている。
ありがたい。
これは、伝説のたま登場回だ。
若き日の鴻上尚史さんが、審査員を務めており、歌詞を褒めてくださっているのに、さっき気付いた。
さすが、天下の鴻上尚史、わかっていらっしゃる。
私は当時、関西に就職していたが、そこではイカ天がオンエアされておらず、札幌の友人が「すっごいのが出てきた!」とビデオを送ってくれて、たまを知ったのだった。
あの時の友人には、感謝してもしきれない。
生涯をかけて愛せるものに出会わせてくれた、恩人である。
さて、尼崎の文化住宅の一室で、ビデオデッキの再生ボタンを押した私は、三宅さんと知久さんとのやり取りを
「もしや、このかわいい人は、ちょっと足りない人なのかな?」
と思いながら、たいして期待せずに見ていた。
だって、どう見てもイロモノだったし。
しかし、演奏が始まった瞬間に、ハートを撃ち抜かれる。
なんといっても、知久さんの、悲しくてノスタルジックな不思議な歌がよかったし、それを歌う声にも、顔にも、ファッションにも、ときめかないポイントは1つもなかったのである。
あれは、人生初の一目ぼれだった。
彼らはここから、あれよあれよという間に5週勝ち抜いて、グランドチャンピオンになり、一躍スーパースターになっていく。
当時大ヒットした「さよなら人類」は、イカ天の2週目で演奏した歌である。
日本列島は、空前の「たまブーム」に包まれ、今は亡き反骨のルポライター・竹中労さんが、多忙なたまを追いかけ取材し「たまの本」という遺作を残した。
竹中さんは、本の中で何度も「君たちは、世界に出ていける。ビートルズになれる」とたまの面々に熱く言うのだが、彼らは「そんなの無理ですって」と笑って応えている。
この温度差が面白い。
「ほんのちょっと、ライブに来てくれるお客さんが増えたらいいな」
と思ってテレビにやってきた彼らは、スターになることにまるで興味がなかった。
「好きなことだけしながら、楽しく暮らしたい」
という、身の丈サイズの幸せしか求めていなかったのである。
ここだ。
ここが、知久さんをはじめとする、たまのメンバーの一番好きなところなのである。
自分の望みが、何なのかわかっていて、そこからブレない。
今でこそ、「そういう生き方もあるよね」と認められている価値観だけれど、昭和の体育会系的なモーレツ根性を引きずっていた平成初期に、「勝たなくても別にいい、今のままでいい」と言えるのは、すごいことだと思う。
たまは、日本の音楽シーンを変えたりはしなかった。
後にも先にも、たまは、たましか出てこなかった。
けれど、たまの音楽が響いた人たちの「上へ上へ」という欲求を、根底から変えてしまったように思う。
楽しいことで生きていこうよ、と目覚める人が増えたのは、たまの出現からではなかったか?
そしてたまは、望み通り大ブームのあとに、しゅるしゅると活動規模を縮小し、今は解散して、それぞれが好きなことをして食べている。
知久さんは、CM音楽を手掛けたり、NHKの番組「ピタゴラスイッチ」の挿入歌を歌ったり、パスカルズで演奏したり、多彩な活躍をしていたが、私が個人的にたま(知久さん)の第二次ブームが来た、と思ったのは、この歌を聴いた時だった。
イラストレーター近藤聡乃さんが、2002年に多摩美術大学の卒業制作で作ったアニメだったと記憶しているのだけれど、調べても「卒業制作」とは出てこないので違うのかもしれない。
とにかく、彼女が知久さんの再評価のきっかけを作ったのだと思う。
知久さん自身は、一貫して「寂しい陰のある変な歌」を歌い続けていただけなので、時代がくるりと一周したということなのだろう。
ところで、たまの4人は、もともとソロで歌っていた人たちなので、みな作詞作曲を手掛ける。
その中で、私が知久さんの歌だけを偏愛しているのには、訳がある。
知久さんの真骨頂は歌詞なのだ。
例えばこんなの。
これは、3.11の福島原発事故の後に作られた映画「セシウムと少女」の主題歌になった曲だ。
この俯瞰っぷり。
長いこと探していた夢のエネルギーだ、ととびついてみたら、こけてケガして傷ついた。
天上から俯瞰して見れば、人間のすることなんてその程度のことでしかない。
誰が悪いとも、俺は反対だとも言わない。
声高に主張しなくても、ちゃんと伝わるトーンで淡々と伝えようとしている。
「あれは、愚かな選択だったね」と。
ちなみに10万年は、核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)が天然ウラン鉱石レベルの放射線量になるまでにかかる時間なのだそうだ。
さらには、こんなの。
人を許すのは、結局自分の平安のためであるという、この達観。
人類がみんなこんなに平和で、内観できていたら、戦争なんて起きないのにと思う。
けれど、知久さんが、こんな穏やかな優しい人になったのには、ちゃんと戦った過去があるからだと思う。
知久さんのご両親は、宗教団体に属していて、子どものころからお経を唱えさせられていたのが、とてつもなく嫌だったというし。
知久さんは高1で家出している。
そして、家出している間にお母さまを病気で亡くしている。
だから、きっと戦ったうえで「戦ってもいいことないよね」と腹落ちした結果が、今の平和主義なのだろう。
これについても、歌詞を絡めてあれこれ書きたいのだけれど、さすがにもう眠くて眠くて、だんだん何を書いているのか自分でもわからなくなってきた。
続きはまたいつか。
敦賀の方、もしこれを読んで知久さんが気になったら、
4月22日土曜13:30からちえなみき2階で、
熱く語る私を見に来てください。
ではおやすみなさい。
**連続投稿443日目**
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