1985年のクリスマス
「臨時のバイト代が入ったから、ちょっと贅沢しようよ?」
ペラッとした茶封筒を握りしめて彼が言った。ニット帽の下からぴょこんと飛び出したくせ毛が愛しい。バイト代が入ったんじゃない、わざわざバイトをしてくれたんだ。
雪の壁で狭くなった歩道を二人で並んで歩くと、すべての音が雪に吸収され、彼の発する声だけがポッと灯って私に届く気がする。付き合い始めて、最初のクリスマスを迎えるころだった。
貧乏学生だった私たちは、いつもギリギリで暮らしていた。バイトをかけもちして、なんとかやっていけるくらいの仕送り。
それをやりくりして、時々ささやかなデートを楽しむ。
だから、クリスマスも手作りのチキンとケーキで、こじんまりとお祝いできればいいかなと思っていたのである。
「うーん。贅沢って、慣れてないからちょっと怖いな」
私は本音を半分交えて、でも押し付けにならないように気を付けて言った。正直、彼といられればどこでも良かったのだ。
こんなかわいい男の子に愛されている自分が、信じられない。5分後に隕石が降ってきても、へらへら笑って死ねるんじゃないかと思う。
つまり、ありていに言えば、しあわせ。
いつも体中の磁力線が彼に向かって集中していくのが見えるようだった。
「あのね。たまには、おいしいもの食べさせたいんだよ。彼女に」
はにかみながらそう言われて、愛しさが爆発して体からあふれた。
「めっちゃ、嬉しそうなんですけど」
目じりを下げて彼が言う。
「ありがと!かわいくしていくね!」
きゅっとしがみつく腕から、暖かいなにかが流れ込んでくる。このかわいい男の子と私は、通じ合っている、と思った
イブに待ち合わせたススキノ駅の改札。
外気は冷凍庫の中より寒いというのに、おめかしした私を見せたくてスカートで立つ。今日のニットもスカートも、古着屋で見つけたお気に入りだ。フワフワウサギのようなモヘアのセーターと黒のフレアスカート、ショートブーツも白いファーの飾りがついている。
気づいてくれるかな、初めてゆるく巻いた髪。
少し遅れてやってきた彼も、ネクタイを締めて見たことのないジャケットを着ていた。前髪も後ろに流してなでつけている。
「うわ。かっこいい!映画みたい!」
「全身ふわふわだ!かわいすぎて、くらくらする!」
バカップルはお互いを褒め合うと、初めての街を、大人ぶって腕を組んで出かけたのだった。
「ねえねえ。贅沢って、ご予算はどれくらい?」
「へへ。聞いたらびっくりするよ!二人で5,000円!」
「わお、すごい!リッチなクリスマスだね!」
私たちが普段あそんでいた学生街では、3000円もあれば、二人でちょっと飲んで帰るには充分だったのである。バブル景気と言われて、華やかさが喧伝されていたけれど、それは私たちとは無縁の世界だった。
「豪遊だね。忘れられないクリスマスだ。でも、ほんとに全部使っちゃっていいの?明日から困らない?」
「大丈夫、大丈夫!まかせてよ。お腹いっぱい召し上がれ」
「お大尽さまだぁ!」
ふたりは無敵だった。
1件目のワインバーのドアを開けるまでは。
クリスマスイブの店内は満席で、ウェイティングシートにも着飾った3組のカップルが待っている。
「お客様、40分ほどお待ちいただくことになりますが、どうなさいますか?」
スタッフがメニューを持ってやってくる。
「待たせてもらっていいですか?メニュー見せてください」
ふたりで開けた最初のページには、
ハウスワイン ボトル 8000円~
グラスワイン 1000円~
と書かれていた。
恐る恐るページを繰ると
前菜(2~3人前)
チーズ盛り合わせ 3000円~
燻製盛り合わせ 3500円~
それ以上は、怖くて見られなかった。
得意げに光っていた彼の頬が、急速に照度を落としていくのがわかる。
「ね。ここ、ちょっと高いよ。出て別のところさがそう?」
私が言うと、こっくり頷いたので、そのままメニューを椅子においてそっと店を出た。
「ごめん。バイトの先輩が、ススキノならあそこがおススメだって。おしゃれで、安くて、おいしいよって、教えてくれたんだけど、僕のお財布には、つりあわなかったみたい」
彼はしょんぼりしながら言う。
近くで見ると彼のジャケットは、襟のふちが薄くなり、袖のくるみボタンが取れそうだった。
ダメダメ、気づいちゃダメ。今日はいっしょに夢を見に来たんだから。
「ね。とりあえずさ、お腹すいちゃったから、軽く食べよう。食べてから作戦を考えようよ」
つとめて明るく言うと、目の前のドムドムバーガーの看板を指さした。
私たちは、普段は半分こするポテトを、一人一つずつむしゃむしゃ食べながら次の手を考えた。
イタリアンとかフレンチのお店は、予約でもう一杯じゃないかな。
ススキノといえど、居酒屋っぽいお店はそんなに高くないはず。
おでん屋さんならクリスマスイブでも混んでなくて、しかもお安いし計算しながら食べられるんじゃない?
うん、じゃあ、おでん屋さんを探そう。
大通りに面してるところは高そうだから、雑居ビルを狙っていこう。
――こうしてクリスマス探検隊は、おでん屋探しに突入したのだった。
裏道を歩き回り、おでん屋さんの看板を探す。携帯もなかったころの話だ。当然、食べログなんて、この世のどこにも存在していない。アタリはずれは時の運、お気に入りの店は足で見つける時代。
3時間歩き回っても、それらしいお店を見つけられず、私たちは疲れ果ててしまった。
「帰ろっか。明日、うちで改めてクリスマスパーティーしよう?」
私が声をかけても、彼はすっかりしょげてしまい、目も見ない。頬に宿った誇らしさも、見るかげもなく消えている。
「ごめんね、せっかくかわいくして来てくれたのに、歩き回って疲れさせただけだった」
「ううん、これもクリスマスの思い出だよ。絶対来年は笑って話せるもん」
「来年も一緒にいてもらえるのかなぁ……。」
「あたりまえじゃん」
そんな会話をしながら、終電が去ったススキノから歩くことにした。
サッポロは大きな碁盤のような街だ。
東西と南北に垂直に交わる何本もの道路が、街を100m×100mのブロックに切り分けている。
ススキノから2ブロックほど北上したところに、大きな赤い提灯を軒先にぶら下げたお店があった。出汁の香りが外まで漂っている。
二人は顔を見合わせた。
「あった!」
深夜のおでん屋さんには、誰もいなかった。カウンターだけの小さなお店。椅子の前には、一人用の取り皿が重ねられ、箸立て、それにカラシの入れ物が並んでいる。
店内は程よく温かく、ボリュームをおさえた有線放送が流れている。四角いおでん鍋の中では、おいしそうながんもや白滝がくつくつ煮えて、大将はこんな深夜の閉店間際にやってきた学生カップルに、嫌な顔もせずにお茶を出してくれる。ぬるくて、ごくごく飲めるほうじ茶だ。
ふたりで並んで座ると、おでんの湯気とにおいに涙が出そうになった。
「今日はこれを食べるために、たくさん歩いたんじゃない?」
私が言うと、彼も「そうだね」と言った。
食べよう。心ゆくまで。
「卵と大根とちくわぶ、あとはんぺんもください」
「私は白滝と大根、つみれと卵もお願いします」
暗い夜に、そこだけぽかんと明るいおでん屋さんで、熱々のおでんを食べた。しみじみ嬉しい味がした。
「ねえ、『ニルスの不思議な旅』にさ、100年に一回海の底から浮かび上がってくる町の話ってあったじゃない?」
ふと思いだして彼に言ってみる。
それは、子どもの頃に読んだ魔法で小人にされたニルスの冒険譚だ。
「うん!すごく好きな話だった。町の品物をお金を出して買わないと、また沈んじゃうんだよね」
「そう!町の人はみんな、優しくて、にこにこして、ニルスにいろいろきれいなものや、めずらしいものを勧めてくるんだけど、お金がないって言うと、すごく悲しそうな顔するの。なんか、あの話を思い出しちゃったよ。なんでだろうね、全然関係ないのに」
「なんとなくわかるよ。信じられないくらい優しいとか、びっくりするくらいきれいとか、そういう奇跡的なものって、とてもはかない感じがするもん。いつ消えてもおかしくないような、さ」
それから、二人とも声を潜めて、
「このお店もちゃんとお支払いしないと、次に来た時なくなってそうな気がしちゃうんだよね」
「奇跡のおでん屋さんだもんね」
とささやき合った。
おなかいっぱいになると、幸福感と温かさが体の隅々まで広がる。すごくいい日だったな、と思った。
「おあいそおねがいします」
彼が覚えたての大人言葉で、会計を頼んでいる。コートを着て準備をしていると、
「ちょ、ちょっと待ってください」
と言いながら、私を振り返った。
「どうしたの?」
「足りない。238円足りない。お金持ってる?」
少し青ざめて、すでに見栄とか恥とかを忘れてる。私たちは、慌てて手持ちのコインを探しはじめた。
私のお財布の中に帰りの電車賃になるはずだった150円。
彼の免許入れに50円。
私のバッグのサイドポケットにいつかの釣銭の25円。
あと8円。
「8円くらい、おまけしてあげるよ。クリスマスだし」
大将は笑って言ってくれる。
でも、ここできれいに決まったら、このお店も私たちもずっと続くような気がする。
「ちょっと待ってくださいね。きっとあるので」
彼も上着のポケットをあちこちひっくり返す。
「あった、3円!」
私も、古着屋で買ったときにチェックしていなかったスカートのポケットを探す。
指先に穴の開いたコインが触れた。
「5円玉!」
私と彼と大将は、顔を見合わせて、一瞬の間ののち、爆笑した。
どうして笑っているのか自分でもよくわからなかったが、5円玉を指さし、自分を指さし、ゲラゲラと涙が出るほど笑った。
暖かい店内で、3人とも心から楽しい気持ちで笑いあった。初めて会った大将と、大事な恋人と、私と。その空間で、ピタッと3人の何かが一致して、いつまでも笑い続けたのだった。
これが幸せじゃないなら、ほかの何を幸せと呼べばいいのだろうか。
1985年のクリスマスは、そんなクリスマスだった。
**連続投稿25日目**
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