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短編小説「初恋だったね」

「また来ないのかよ?」
「あいつやる気あるの?」
「完成しなくても、俺たちのせいじゃないもんね」
「帰ろ、帰ろ」
がやがやと10人あまりの男子たちが教室を出て行った。

由希ゆき は、焦る気持ちを隠して、残った女子たちに声をかける。
「看板はさ、下絵ができちゃえば、色塗りはそんなにかからないと思うから、先に衣装とボンボンをつくっちゃお。大丈夫、きっと来るから」
不安そうだった女子たちが、めいめいの作業に戻っていくのを確認して、由希は教室を出て職員室に向かう。
職員室の電話を借りて、豊に連絡するためだ。

加門豊かもんゆたかは、由希のクラスメイトで保育園時代からの幼馴染だった。

昔からお絵かきが好きだった2人は、絵を描いてさえいればご機嫌で、小学生のころは、ずっと同じ絵画教室に通っていたのだ。
どちらかというと写実画が得意な由希は、水彩や色鉛筆の淡い絵が好きだったが、豊はポップアートにはまって、マーカーで線のはっきりしたイラストを描くことが多かった。
見ているこちらが元気になるような、カラフルで、躍動感のある絵だ。
好みは違っても、お互いの絵は大好きだったので、毎週の絵画教室は2人ともとても楽しみに通っていたのだった。

そんな平和な時代が終わったのは、中学に入ってからだ。
忙しくなり、絵画教室から足が遠のくと、会う機会も減った。
ずっと「ゆきちゃん」「ゆたかくん」と呼び合ってきたのが、豊は入学と同時に「佐久間さん」と呼ぶようになった。
そのよそよそしい響きに、胸のどこかが、ちくんとしたが、気取られないように由希も「加門君」と呼ぶようになった。

「ゆきちゃん」と呼ばれなくなったことは寂しかったが、でも、変わったのはそれだけだとも思う。
豊は由希への接し方を変えたわけではなく、昔と変わらず優しかった。
試験の日に消しゴムを忘れて真っ青になっていた時は、おろしたての新品を半分に切って貸してくれたし、遠足のお弁当のおかずがトンビにさらわれた時には、自分も大好きなミートボールを分けてくれた。
だから今回のように、由希の窮地をすっぽかすなんて、絶対起こりえない異常事態だったのだ。

(何かあったんだよ、絶対)由希は足早に職員室に入っていくと、
「斉藤先生、電話を貸してください」
と担任に声をかけた。
「おお、佐久間か。いいけど、どこにかけるんだ?」
「加門くん、今日も看板の下絵を描きに来てないんです。連絡してもいいですか?」
「わかった。どうぞ」
斉藤先生は、資料が山積みになった机の端に置かれた電話機を引っ張り出して由希に渡すと、名簿も一緒によこしてくれた。

由希は、豊の自宅の電話番号なら、小さいころから何度もかけてきたのでそらで言える。
が、お礼を言って名簿を見ているふりをしながら、電話をかけた。
何度も呼び出し音が鳴るが、誰も出ない。どこに行っちゃったんだろう。

「ダメです、いないみたい」
由希がしょんぼり言うと
「そうか。仕方ない、看板は、お前が描くか?美術部だし」
と、先生が由希の目をのぞき込んで言った。
「いえ、ぎりぎりまで、待ってください。きっと来るから」
由希は、それだけ言って、職員室を出た。


豊が学校に来なくなり始めたのは、1学期のゴールデンウィークが終わったあたりからだった。

3年C組は、学年中のちょっと悪い男子が集まったクラスだな、と思っていたのだが、案の定その子たちは、4月の間に目立つ集団になり、クラスに勝手な序列を作りあげた。そして、反撃できなさそうなおとなしい子たちに狙いを定めて、いやがらせを始めたのだった。

豊は体は大きいが、ゾウのように優しい子で、休み時間は同じように静かな子たちと教室の隅で、マンガの話をしているか、一人で本を読んでいるか、絵を描いているか、といった感じの男の子だった。
つまり、派手な男子たちの格好の標的だったのだ。

教科書に落書きされる、体操着がゴミ箱から見つかるなんていうのは、日常茶飯事で、給食のおかずを「これちょうだい」と勝手に持っていかれたり、上履きに牛乳を注がれたりといった事件が続くうちに、豊は学校を休むようになったのだった。
斉藤先生は、いじめが発覚するたび、リーダー格の男子を呼び出しては、話をしていたが、ようやくクラスに小康状態が訪れた時には、豊は学校に来る日の方が少なくなっていた。
そして、二学期になると、ついに一日も登校しないまま一週間が過ぎてしまったのだった。

由希は不思議だった。
いや、もちろん、いじめは豊にダメージを与えていたのではないか?とは思う。
けれど、由希の見たところ、彼はそれを意に介している風ではなかった。
いつもひょうひょうとして、何も言い返さず、やり返さず、男勝りの由希が男子グループに食ってかかるのを、「俺は、まじで大丈夫だから」と止めに入るのは豊だった。
無理しているというより、心ここにあらず、といった感じの「大丈夫」だったが、少なくともいじめに耐えているようには見えなかった。
どこか老成していた豊は、同世代のいたずらの延長のような幼稚ないじめを、本当に気にしていないようだったのだ。

(いじめが辛いわけじゃないなら、いったいどうして、ゆたかくんは来ないんだろう?)由希はずっと、そこがわからなかった。


9月の第2週。
新学期のクラス委員もきまり、中学最後の文化祭や体育祭に向けて、出し物を練る話し合いがスタートする。
由希は、豊と同じクラスになれたことが嬉しかったし、一緒に楽しい思い出を作りたいと思っていた。
だから、係決めの日に豊が来たら、一緒に看板を書こうと誘ってみるつもりだった。

その日、豊は午前中だけ学校に来た。
先生が家まで迎えに行き、連れてきたらしかった。
久しぶりの登校だというのに、居心地悪そうな様子もなく、いつものひょうひょうとした豊だったことが由希には嬉しかった。

「じゃあ、体育祭の係を決めるぞ」
言いながら先生は黒板に板書していく。

・体育祭実行委員
・看板係
・衣装係
・応援団


「係は、全員参加。体育祭の日までに看板か衣装を作るか、応援団に入ってダンスを考えて、みんなに振り付けを教えるか。どれでも好きなのを選んでほしい。実行委員は、全員の進捗管理と予算管理だな。当日も仕事があるから、応援団とは一緒にやらないほうがいいだろう。さ、まずは実行委員を決めちゃおうか」

斉藤先生が言い終わる前に、派手男子チームの一人が
「佐久間さんがいいと思いまーす」
と大声で言った。
由希は焦って
「私は看板係がやりたいです」
と言ったが、
「えー?看板は、俺たちがやろうと思ってたのに」
と返ってきた。
「そんで、看板のデザインは加門君がいいと思います。加門君と俺らで看板を作りますんで、佐久間さんは、得意の仕切りでクラスをまとめてくださーい」
「賛成!」
「賛成!」
制服を着崩した男子たちが次々、にやにやしながら声を上げる。

いじめは止んだと思っていたのに、またこれなの?と由希は腹が立った。
けれど、由希が何か言うより先に、豊が手を挙げていった。
「看板に下絵を描くだけならやってもいいです」
え?と由希は思ったし、男子グループも意外だったようだ。
学校に来られない加門に、一番の重責を押し付けて困らせてやれと思っていたら、「できる」というのだ。
拍子抜けしたらしく、
「おう、じゃあ、がんばろうぜ」
などと、いかにもとってつけたように言っている。

看板チームが決まったら、あとはスムーズだった。
衣装づくりは手芸部中心に集まり、応援団も男女の体操部とチア部がまとめてくれることになった。
由希は仕方なく実行委員を引き受け、その日のクラス会議は終わったのだった。

次の日、約束通り豊は学校に来て、大看板の下絵にとりかかった。
模造紙9枚を張り合わせたところに、デフォルメした斉藤先生が扇子を持って躍っているイラストを描いていく。

「下絵の間は、俺ら、やることないから帰るわ。あとはよろしく!」
派手男子チームはさっさと帰ってしまい、教室の床は大看板の下絵に占拠されていた。
いろんな人が見に来ては
「斉藤先生そっくりだねえ」
「加門くんて絵がうまいんだねえ」
などと言っている。
豊は、こういうコミカルな絵が得意なのだ。
自分が褒められたわけでもないのに、由希は嬉しくて、その日はずっとにこにこしていたのだった。

ところが、次の日、豊は来なかった。
その次の日も来なかった。
看板の斉藤先生は、顔だけが宙に浮かび、体も背景も何もない状態で放置されている。
「なんだよ、あいつ、責任感ねえなあ。俺たち仕事ができないじゃん」
「今日もやることないのか、帰ろうぜ」
してやったりという表情で帰っていく男子たちを見て、しびれを切らした由希が、豊に電話をかけたのが今日だったのだ。


夕飯を食べ終わり、自室で宿題をしていた由希に、電話がかかってきたのは20時過ぎだった。
豊からである。受話器を取ると、いつもののんびりした声が聞こえた。

「あのさ、おれ、明日も学校行けそうにないんだわ。今からだったら、下絵描きに行けるんで、先生にも許可もらったんだ。佐久間さんもよかったら、来ない?」
「え?夜の学校に入ってもいいの?行く行く!」
「そう言うと思った。一人で行くの怖いからさ、下駄箱のところに集合しよう。9時には行けるからさ」
「わかった!」
由希は、着替えると母に手短に経緯を説明した。豊のことは小さいころから知っている母は、
「じゃましないようにね」
と言って快く送り出してくれた。

「想像以上に不気味すぎるんだけど」
クラスの下駄箱前で待っていた豊は、由希を見つけると手を挙げてそう言った。
「ほんとだね。夜だってだけで、こんなに怖いとこなんだね、学校って」
2人とも言葉と裏腹に、浮き立っているのがわかる。
階段を上り、教室に着くとすべての照明をつけた。
やっといつもの教室らしくなる。
後ろに作業スペースを作るため、机をずらし、紙を広げた。

「相変わらず、うまいよねえ」
由希が、大きな斉藤先生の顔を見ながら、ほれぼれと言うと
「まあな、それしかできないし。佐久間さんも描いてよ。下絵のコピーしてきたからさ」
と豊が言った。
「え?私も描いていいの?」
「もちろん。見てるだけで帰れると思った?」
豊は笑いながら、折り目を付けて9ブロックに分けたイラストを、由希に渡した。
「俺、この真ん中の、斉藤先生の体を完成させちゃうからさ、佐久間さんは背景の校舎と、レタリングを頼むよ」
そう言いながら、由希の担当ブロックに印をつけていく。
大きな作品を作るときは、縦横比をそのまま縮小した下絵を描いて、それをブロックごとに描き写して行くのが一般的だ。
基本に忠実な豊は、模造紙9枚分の縦横比を計算して、そのサイズに合わせた下絵を描いていた。
「ブロックが大きすぎたら、その中に小さいマス目を切ってもいいから」
豊はそう言い、作業をスタートさせた。
迷いなく鉛筆で下絵を描いていく。
由希もあわてて上履きを脱ぐと、紙の上に四つ這いになって、「必勝3C斉藤組」というレタリングから写し始めた。

作業は一時間ほどで終わった。

「できたね」
由希が立ち上がって、後ろに下がり、看板全体を眺めて満足げに言う。
「うん」
豊も、満足そうだ。
「加門君は、看板の下絵を描くだけなの?色塗りは来ないの?」
と由希が訊くと
「うん、ちょっと難しそう。だから、色指定もしてから帰るわ」
と言って、再び下絵の上にかがみこんだ。
『赤』『オレンジ』『黄緑』など、パーツごとに塗る色を指定していく。
「こんなもんかな。もしわかんないところがあったら、あとは佐久間さんのセンスでやっちゃってよ」
と、筆記用具を片付け始めた。

「ねえ、どうして学校に来ないの?」
由希がその背中に向けてつぶやくように尋ねると
「今はまだ言いたくない」
と豊は言った。
そして振り向くと、
「帰ろうぜ。電気消すよ」
と、照明スイッチに手を伸ばした。

不意に暗闇が訪れ、目が馴れない由希はおろおろと出口を探した。
「こっちこっち」
豊は、由希の手を取る。
「下まで怖いから、手をつないでてもいい?」
由希はドキッとしたが、もちろん、嫌ではない。
「うん」
と答えて、廊下を歩いた。

豊とはなんだかんだと一緒にいたのに、手をつなぐのなんて、保育園の遠足以来だ。
心臓の音が廊下に反響するのではないかと心配になるくらい、体の中で大きく響いていた。


翌朝、下絵が完成しているのを見つけたクラスメイト達は沸き立った。
「すごい上手だよね。斉藤先生そっくり」
「これなら優勝できちゃうかも」
「あとは、あの子たちがちゃんと色塗ってくれたらいいんだけど」

男子チームは、仕掛けた嫌がらせが不発だったことが悔しかったようだが、それでも、自分たちで言いだしたことなので、きちんと色塗りをしてくれた。
意地悪なくせに、妙なところでまじめなのだな、と由希は思った。
斉藤先生に何か、はっぱをかけられたようでもある。
他クラスの目立つ男子たちが、率先して応援団などの役割をこなしているのを見て、刺激を受けたのかもしれない。
何にせよ、色塗りは着々と仕上がっていった。

(ゆたか君も、来るかな?きっと完成したところ見たいよね。来るように連絡してみよう)由希はワクワクしながら当日を待ち、仕上がっていく途中の看板をこっそりスマホで撮影しては、豊に送った。
豊からの返信は
「おー!」とか
「いいかんじだな!」とか
短かかったが、由希には豊も楽しみにしているのが伝わってきた。

なのに。
体育祭当日、豊はついに現れなかった。
そのことも悲しかったが、クラスの誰も、それに気づいていない、むしろ、それがあたりまえだと思っている風なのが、ますます由希を傷つけた。
(最後だったのに。一緒に看板の前で写真撮りたかったのに)
由希は、実行委員として、忙しく動き回り、クラスを盛り上げながらも、心の中は、しん…と寂しかった。


中学最後の体育祭の応援合戦は、由希たち「3-C」の優勝で幕を閉じた。
「ダンスも衣装もよかったですが、何と言っても看板が目を引きました」
校長先生が、トロフィーと賞状にコメントを添えてくださる。
由希は、実行委員としてトロフィーを受け取りながら、
(ゆたか君が描いたんだもん、当たり前!)
と思い、なのに、当の豊の不在を、誰も何とも思っていないことが辛かった。

教室に引き上げると、友達が打ち上げに行く相談をしている。
「帰って、着替えて、6時にサイゼに集合ね」
「サイゼは、ほかのクラスも使うから、席がないかもよ?ジョナサンは?」
などと、興奮冷めやらぬようだ。
由希も誘われたが、
「ごめん、疲れちゃった」
と断ってしまった。

のろのろと着替え、最後に教室を出る。
看板は、教室の後ろに立てかけられている。
最後に振り返ってもう一度見たら、涙が出てきた。
明日にはバラバラにして、燃やしてしまうのだ。

(なんか、ほんとに疲れちゃったな…)
由希は重い足取りで、校門を出た。
すると、よく知った優しい声が
「佐久間さん」
と呼びかけてくるではないか。

(今頃なによ!)
由希は、それまでの寂しさの反動で、本当は嬉しいのに、プイっと無視してしまった。
すると今度は
「ゆきちゃん!」
とその声が言う。

思わず振り返ると、帽子とサングラスで変装した豊が立っていた。
「何その恰好?!」
吹き出しながら訊くと
「体育祭さ、途中からいたんだよ。保護者席に」
と豊が言った。
「え?どういうこと?」
と由希が言うより早く、
「とりあえず、二人で写真撮りたくて。教室にあるんでしょ、看板?」
と豊が、由希の先に立って校舎へ引き返す。
由希も、あわててそのあとを追った。


「俺さ、最後だから、ちゃんといい写真が撮りたくて、父さんから一眼レフ借りて来ちゃった」
豊はそう言って、三脚を立てると、看板の前に由希を立たせピントを合わせる。
「もうちょっと右へ行って。俺左に入るから。いい?いくよ」
セルフタイマーで何枚も何枚も写真を撮った。
真面目くさって、ふたりで直立しているもの。
看板の後ろから、顔だけ出してこちらを見ているもの。
真ん中の斉藤先生にむかって、二人で両側から手を差し出し、求婚しているように見えるもの。
斉藤先生の鼻に指を突っ込んでいるように見えるもの。
変なポーズを思いつくたび、二人で爆笑しながら撮った。


「あー楽しかった。こんなに笑ったの久しぶり」
由希は、嬉しくて、楽しくて、心が飛びはねている。
きっと、豊も同じ気持ちでいるのだろうと振り返ると、三脚を片付けながら顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのが見えた。
「ゆたかくん、どうしたの?!」
由希がびっくりして声をかけると、
「ゆたかくんって、久しぶりに呼ばれた」
と、豊が無理に笑いながら言った。

「あのさ、俺、転校することになって。今日が本当に最後なんだ」
「え? なんでそんな急に? うそでしょ?」
「ううん、うそじゃない。前から決まってたんだけど、言えなくて」
由希は、言葉が見つからない。
小さいころから一緒だった。
この先も、ずっと一緒だと思っていたのだ。
いじめが辛かったから?
だったら、これからはもう、誰にも遠慮なんかしないで、私が全力で守るから!
頭の中がぐるぐるする。
もう決まったことだ、なんて言わないでほしい。
どうしたら引き留められるんだろう。

「俺の母さんさ、夏休みに死んだんだよ」
豊が思いがけないことを言い、由希の思考がぴたりと止まった。
「春からずっと、癌で入院しててさ、一学期、時々休んでたのは、父さんのかわりに病院に洗濯物を届けたりしてたんだよね」
「そうだったんだ」
由希はやっと声を振り絞る。

「でさ、おれんち、弟がいるじゃん」
そういえば、小学校を卒業するころ、絵画教室のお迎えの時に、豊の母が赤ちゃんを抱いてきていたことがある。
「ようへいくん、っていったっけ?」
「そう、洋平。まだ3歳でさ。母さんが死んだってこと、わかってないみたいなんだ」
「うん」
「そりゃそうだよね、俺だって、納得してないのに。でさ、洋平、保育園に行けなくなっちゃって。無理に連れて行こうとすると吐くんだよ。たぶん、小さいなりに、いろんなことがストレスだったんだろうね」
「うん」
「父さんは、会社をそんなに休めないし、俺が学校を休んで、洋平と遊んでやってたんだけど、看板描きの日にさ、調子良さそうだったから、保育園にお願いしたら、なんか、退行っていうの? それまでできてたトイレができなくなっちゃって、おもらし繰り返すようになっちゃって、こりゃだめだ、ってまた俺が家にいるようにしたんだけど」
「うん」
「俺が学校に行けないのは、先々、困るだろうから、って父さんのばあちゃんが来て、話し合って、俺らばあちゃんちに引っ越すことになったんだ」
「うん」
「それが、明日」

由希の、こらえていた涙が一気に噴き出した。
「なんでもっと早く言ってくれないのよう!」
豊の目にも再び涙がたまる。
「だって、こんなこと、言える?自分でも、何がなんだか、よくわかんないにのさ。なんで母さんが死んじゃったのか、俺、全然わかんないよ。春休みは元気だったんだよ。あっという間に、どんどん痩せて、骨みたいになって、最後、もう、会いに行くのもつらくて。俺の母さんなのに、さ」
「だっ、だからさ。そういう気持ちを話すだけでも、ちょっとは違うじゃん。一緒に泣くだけでも、違うじゃん。そんなの一人で我慢しないでほしかった!」
由希は言うなり大号泣した。
豊はばかだ。私はもっと大ばかだ!なんで気づかなかったんだろう、もう。

泣き続ける由希を見て、いつの間にか豊が笑っていた。
「ほんと、ゆきちゃんは、昔っからそういうところが全然変わらないよね」
「なっ、なによう」
「俺が転んで、膝をすりむいたりするとさ『痛そう』って、俺より先にゆきちゃんが泣くんだよ」
「笑うな、バカ! 今だって痛いくせに。ちゃんと泣け!」
由希は、豊の肩を抱くと、わんわん泣いた。
2人は、日が暮れるまで泣き続けた。


「疲れたね」
豊が言う。
「うん、泣くのも体力要るんだね」
由希も応える。
「でも、すっきりした。ありがと」
「どういたしまして」
「一つ、言ってもいい?」
「うん」
「おれさ、幼稚な連中に何されても、それどころじゃなくて、何とも思ってなかったんだけどさ、ゆきちゃんが、おれが何かされるたびに、泣きそうな顔してて、それが、ほんと悪かったなって思ってた。ごめん。俺が痛いと、ゆきちゃんも痛いのにね。ほっといちゃダメだった」
「ばれてた?」
照れくさい。恥ずかしい。
「うん、バレバレ」
豊はにっこり笑った。
「学校はわりとどうでもいいと思ってたんだけど、ゆきちゃんには、会いたかった。だから、看板描き、誘ったんだ。来てくれてありがと」
「うん。誘ってくれてうれしかった。わたしもありがと」
「今頃言うのは、ちょっとずるいよね」
「うん、ずるいね」
「でも、初恋ってそういうもんだよね」
2人は笑い合い、立ち上がった。
それが、豊と教室で過ごした最後の記憶になった。


豊は去り、クラスは何も変わらない。
由希は、豊のことをぶちまけたかった。
苦労知らずの同級生たちに、豊の強さや、やさしさを知ってほしかった。
けれど、苦労知らずで、豊の強さを知らなかったのは自分も同じなのだ。

豊は、何も言わずに態度で示した。
優しさを行動で表した。
自分もそんな風に強くなりたい、強くなって、いつか豊に会いに行きたい。

由希はそう思いながら日々を過ごし、明日、約束の18歳を迎える。
初恋だった、と2人で確認してから、3年がたつ。
豊より好きになれる人は現れなかった。
きっと、ずっとそうだと思う。
明日は、「やっぱり大好き」を確認しに行き、「豊もそうでしょ?」を確認しに行くのだ。

「初恋ってそういうもんだよね」というあの言葉は「初恋ってかなわないもんだよね」という意味だったのだろう。

とんでもない。
初恋なんだぞ。
一生に一度の怒涛のエネルギーを注入したんだぞ。
叶わないわけがないでしょ。
2人は世界一幸せになりました、で終わるんだよ。
そういうもんなの、初恋って。

**連続投稿172日目**

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