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1年間 毎日noteを書き続けて変わったことは?

昨日投稿したこの記事で、無事「毎日note1周年」を迎えられた。

嬉しくなって、プロフィールも更新してしまったので、良かったら覗いてみてほしい。

さて。

飽きっぽいこの私が、1年間、毎日更新できたのは、ひとえに私の力だ。

ここは、謙虚に「いつも読んでくださる皆さんのおかげです」と言うべきところなのだろうけれど、私のnoteをこの1年、毎日読んでくださっていた人なんて世の中にたぶん、1人か2人しかいない。
そして、それ以外の方にまで感謝する義理はない。
たまたまこのページを開いた人は「いつもありがとう!」と言われても「いつもなんか、読んでへんわ」と突っ込みを入れたくなることだろう。

不要なつっこみ回避のために、公の場では「ありがとう」とは書かない。
でも、いつも読んでくださっている皆さんには、いつか私が、ブックライティングをまかせていただける日が来たら、私のクレジットが入った本を、無理やり送り付けるので覚悟しておいてほしい。

いきなり話が逸れた。
本当は何が書きたかったかというと「1年続けて変わったことは何か」ということだ。

チェック形式でその問いの回答を羅列してみたい。
この一年で変化があったことには、☑ をつけてある。

☑ 39度の熱があっても、人間って書けるものだと自信がついた
☑ 半分寝ながらでも、何かしら書けるものだと自信がついた
□ 文章がうまくなった
□ 仕事が舞い込んだ
□ 読者が何を求めているのかわかるようになった
☑ 読み返しても恥ずかしくなくなった
私の実感から

1年続けたくらいで、文章がうまくなったり、仕事が舞い込んだりはしない。
絶対に、しない。
いや、よほどの天才はするのかもしれないけど、凡才には奇跡は起きない。
そして、読者が何を求めているのかなんて、永遠にわからない。

だって、「聖徳太子に同時に話しかけた人たちって、ちょっとおかしいんじゃない?」というどうでもいい記事に、そこそこ『スキ』がつくのに

何の役立つ内容もない、単なる日記でしかないこの記事に、そこそこ『スキ』がつくのに、

超絶気合を入れて書きまくったアレやコレには、思ったほどの反応がない。
私には、皆さんが、何を求めているのかなんて、これっぽっちもわからない。まじで。

ただ、自信はついた。
熱があろうが、睡魔に襲われようが、ひとたび、この真っ白なノートの画面を開けば、何かしらは書けるという自信だ。
これは、実生活でかなり役に立っている。
仕事で書くレビューでは、まったく知らないジャンルの製品について書かねばならないことがあったりする。
一年前は、それが怖かった。
書けないんじゃないかと、引き受けるのを躊躇した。
でも今は、どんな依頼が来ても、きっと書けるだろうと思っている。
だって、できたんだもん。

そしてもうひとつ。
わが師いわく、noteを毎日書くこととは、「毎日考える時間をとること」なのだそうだ。

「ん?じゃあ、あなたは、仕事は全く考えないで適当にやってるの?」
と反射的に思った方、そういうことではない。
揚げ足とりは、自分の中から撲滅した方がいい思考の一つだ。
友達をなくす。

それ以外の時間だって、ばりばり考えている。
仕事の構成だって考えてるし、夕飯の献立についても冷蔵庫の中身を見ながら考えている。
徒長してきた多肉たちを、どのタイミングで仕立て直すかも考えなくてはいけないし、雪が降りそうなら、いつ買い物に行くかも考える必要がある。
長期的には、終の棲家をどこにするかという大きな問題も、常に頭の片隅にないとは言えない。

でも、そういう外部のことに脳を使うばかりでは、疲れてしまう。
noteを書くことは、自分の内側に「今あるもの」を見つめて、それを棚卸する作業なのだと思う。
毎日一回、棚卸の時間を作る。
自分のためだけに、頭を使って、脳内倉庫の荷物整理をする。

それをするのとしないのとでは、次の日の気分が全然違う。
いらない在庫を抱えたまま、翌朝「また一日が始まってしまった」と思うのと、空っぽになった頭で晴れ晴れと「今日もいい日だ、頑張ろう」と思うのでは、まったくスタートが変わると思わないか?
思うでしょ?
思うよね?
そう、大きく変わるのだよ、これが。

その証拠に、時間が無いから、と過去にFacebookに投稿した文章を、ちょちょっと直して載せた翌日は、脳疲労が全然抜けていなかった。
何かがたまったままで、気持ち悪かった。
白紙のnoteに1から考えた文章を書いていくことは、セルフカウンセリングのような役割があるのだと分かった。
(ちなみに、わが師はそんなことは、一言も言ってないと思う。私の実感だ)

そのおかげなのか、なんなのか。
私はかつては、自分の書いた文章を読みなおすのが恥ずかしくてたまらなかった。
けれど、今はそうでもない。
「これ、好きだな」と自分の過去の文章を読んで、思うことだって、ごくまれにある。
無駄な何かが、削ぎ落ちたのだと思う。
その8割はたぶん「素人でごめんなさい」という意識だ。
「私は、素人で文章もへたくそで、人様に読んでいただくに値しないものをさらしている」と変に自分を卑下する意識が消えた。
今もへたなのに?
うん、へたなのに。

それが、365日書き続けたことの効能なのだろう。
ある種の開き直りなのかもしれないし、高すぎる理想を見ることをやめて、現在の自分を受け入れられるようになった、ということなのかもしれない。

今日からは、2周年を目指して、また、淡々粛々と書いていこうと思う。
その頃の自分に、何が見えているのか、楽しみだ。

**連続投稿366日目**


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