ファースト・コンタクト『万年筆編』
子供の頃の夢を大人になって叶えた人間は少ない。だがそれは理想となる自分や憧れの職業になれなかったというだけの話で、もっと小さな望みなら、叶えることのできた人間は多いのではなかろうか。
僕にとってのそれは万年筆であり、万年筆を自在に使いこなす人間になることが昔からの小さな夢の一つだった。実際に万年筆を4本所有している今の身からすれば、夢というほど大げさなものには思わないのだが、何も知らない当時の自分からすれば、万年筆はそれだけハードルが高いシロモノだったのである。
夢にはきっかけがあり、物語には当然始まりとなる出会いがある。
僕が万年筆というアイテムを初めて意識したのは何を隠そうドラえもんで、時代柄、万年筆の登場シーンは比較的多く、身近にない筆記具というのもあって興味を誘われたせいか、自然に脳内へと刷り込まれていった。パパの万年筆を失くして望遠鏡で探すエピソードや、道具を使ってしずかちゃんとチューすることを計画したのび太が、万年筆から飛び出たインクが「チュー」とかかって顔面が真っ黒になる間の抜けたオチなど、万年筆絡みのエピソードはどれも記憶に深く刻み込まれている。描かれていたのは漫画らしい劇画化された大きな万年筆だったが、どことなく大人の香りのするそれは、幼少期の自分に憧れを抱かせるには十分過ぎるものだった。
しかしその夢が実際に叶うのは、それから約20年後のことである。
なぜそのタイミングで万年筆に対する思いが再燃したのかは分からない。恐らく大学を出たばかりというのもあって、何かしら節目となるものを欲していたのだろう。働き出して、自分の自由になるお金が手元にあるなら、最初にやることは夢を叶えることである。大学を出たばかりの頃は大人の社会は色々と不安でいっぱいで、せめて幼少期の夢を叶えることで、大人になったという満足感を形にして残したかったのかもしれない。モラトリアムから抜け出そうと足掻いていた自分にとって、どんな形であれ、大人になるというメリットを明確化するのは急務であり、責務だった。
そんな思いを携えながら、田舎で唯一と言っていい万年筆の専門店へと足を運んだ。選ぶふりをしてはいたが、本当は選んではいなかった。買うものは最初から決まっていたのである。
当時の僕は舶来主義に凝り固まっており、舶来モノ以外の選択肢はなかった。夢はモレスキンのノートにパーカーの万年筆で書くことであり、それが当時の自分の考える精一杯のお洒落だった。それ以外はありえないとさえ思っていた。今の自分なら、真っ先に止めるであろう癖のある組み合わせである。
モレスキンのノートは、ピカソやゴッホに愛された伝説のノートという触れ込みだが、実際は彼らが使ったわけではなく、彼らの使っていたノートの形状を再現しただけのものに過ぎない。それだけなら誇大広告なノートというだけだが、問題はそこではなく、万年筆との相性である。モレスキンの紙質は悪く、万年筆で書くと裏抜けすることは一部では有名なのだ。
パーカーの万年筆を買うことは決まっていても、どれを買うかは決まっておらず、生来の貧乏性のせいか、金ペンという選択肢はなかった。そこで選んだのが5000円程度の品である『IM』という万年筆である。だがこれがとんでもないシロモノだった。
IMのキャップには通気口が空いており、2日、3日使わなければすぐに乾いてしまうという欠点があったのだ。
すぐに乾く万年筆で、裏抜けするノートに描けばどうなるか? 最初こそ、万年筆とはそういうものだと思い込もうとはしたものの、失望感は隠せず、万年筆は使いにくいものだという偏見が植え付けられてしまった。裏抜けした2500円のノートと、すぐに乾いてインク切れする5000円の万年筆。授業料は高く、夢に挫折はつきものである。
モレスキンもパーカーも、一度僕を裏切った品物ではあるが、今にして思えば二つとも言うほど悪い品ではなく、全ては自分の知識不足が原因である。
モレスキンの紙質の悪さはよくネタになるものの、万年筆で書くから裏抜けするのであって、ボールペンやシャーペンならば特に何の問題もない。ハードカバーにソフトカバー、白紙、罫線、方眼と種類も豊富で、やや高めの値段設定にさえ目を瞑って、用途を絞ればかなり使いやすいノートである。何よりもそのコラボの多さは魅力的であり、デザインの選択肢が広いのは手帳を選ぶ上で大きな利点の一つである。
パーカーの『IM』も癖は強いものの、硬い書き味のガチニブであり、欠点である乾きも毎日使うならそこまで気にならない。むしろ必要がなくとも何かにつけて書く理由を探しているのが万年筆好きであり、値段の手頃さも相まって普段使いで書くぶんには十分な万年筆であるといえよう。揮発性の高さもインクの交換回数が増えるという、インクマニアならではの利点がある。
最初の失敗が教えてくれたのは、モノには用途に応じた特性があり、それを見分けることの大切さである。また舶来モノにこだわらない視野の広さも教えてもらった。万年筆好きな人曰く、最初の万年筆が合わないのは万年筆あるあるらしい。それを聞くことで少し救われた部分もある。
ちなみに買ったモレスキンとパーカーのIMがどうなったかというと、モレスキンのノートは試し書き用として今でも使っている。パーカーのほうは今はインクを抜いて保存している状態だが、新しいインクを試す時用の万年筆という大事な役割がある。数年越しの和解だった。
買ったものは失敗も込みで、決して無駄にはならない。知識を得るにはまず投資が必要で、そのためには多少の無駄は覚悟しなければならない。今のご時世、効率のいい情報収集による「賢い」やり方を好む人間の方が多いが、他人の失敗の繰り返しの果てに得た知見にタダ乗りするよりは、失敗の一員に名を連ねるほうが個人的には好きだ。偉そうな言い方になるが、未踏を恐れない開拓者に僕はなりたい。
そんなこんなで気がつけば沼に引きずり込まれ、今は万年筆を普段使いしている。ちなみに愛用しているのはセーラー万年筆のプロフィットスタンダード中細と、アサヒヤ紙文具店のクイールノートで、紆余曲折あってこの組み合わせに落ち着いた。プロフィットスタンダードはエントリーモデルの金ペンながら、国産特有の字幅の細さが魅力的で、紙を刻むようなサリサリとした書き心地が最高である。この書き味は万年筆でしか味わえず、インクの濃淡も美しい。
クイールノートはやや高めながら、インクとの相性が抜群である満寿屋のクリーム紙を採用しており、薄い若草色の方眼は目に優しく、インクの裏抜けや滲みもない、非常に使いやすいノートだ。内容は物騒なことを書いているが、図書館で読んだ本の覚え書きとして使用している。学生の時にこの組み合わせに気づいていたなら、もう少し勉強に身が入ったかもしれない。文房具のこだわりは、日常の些細なことに彩りを与えてくれる。
かつて抱いていた憧れはすっかりなりを潜めて、こうして万年筆は生活の一部となった。新しいものを買って、それが日常に馴染んでいく過程が僕は好きだ。僕にとって万年筆はもう特別なものではなく、シャーペンやボールペンと変わらない、日常の一コマなのである。
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