法医学者、死者と語る/岩瀬 博太郎

https://www.wave-publishers.co.jp/books/9784872904871/

読了日 2021/02/27


読みすすめていくうちに不快な気分になっていることに気づく。
法医学関係の書籍はずいぶん読んだので、ある程度の内臓や解剖の描写は慣れているはずだ。
それでも読んでいくうちに、なんだか嫌になっていく。
だんだんと、その理由が分かった。
著者は怒っているのだ。
著者の怒りがそこかしこににじみ出ていて、それが伝染するかのように不快な気分にさせられる。
だからといって読む手を止める理由にはならない。
なぜなら著者の怒りは、悲しみと言い換えても通じるからだ。

数々と呼べるほどでもないが法医学関係の著作を読んだが、人手が少ないという嘆きはどの本にも共通してみられた。
この著作は発刊が2010年なので、わりあい最近の実情が語られている。

本書によると、法医学は専攻する学生が少ないから人手が足りないのではない。
雇える環境があまりにもないために、人手不足に喘いでいるのだ。

たとえば千葉県ひとつとっても人口に対しての法医学者の常勤医はたった2名しかいない。
これをヨーロッパ諸国と比べると、向こうでこの規模の人口を抱えるとすると常勤医は数十名いてもおかしくないというのだ。
変死体は年およそ7000体出ているのに、手がまわらないために実施できている人数は200人どまり。

著者はなんとか自分のもとに学びに来てくれた学生たちをみんな雇ってあげたいと思っているのだが、その環境がまず整っていない。
さらに遺体と触れ合うことは、つまり感染症の危険性がともなうことでもある。
言葉は悪いが、新鮮な遺体ならばまだしも、腐乱した遺体ともなればどのような病原菌を保有しているか分かったものではない。
さらに現状ではコロナウイルスに感染する危険性もある。
にもかかわらず、この職業には危険手当がつかない。
臨床の医師より給与も低い。
契約は一年ごとに打ち切られる可能性もある。

法医学者という職業は、やりがいを有している。
しかし法医学者も人の子だ。
霞を食べて生きていけるわけではない。
生活が保証されないのなら、いくらやりがいが見いだせる仕事でも人手が足りなくなるのは自明の理ではないだろうか。

さらに死因の決定についても、日本人お得意のなあなあ精神でこれまで続けてきたとある。
死因とは死んだ原因と文字通りだが、その死んだ原因の責任追及についても厄介さを抱えている。
乳幼児突然死症候群、SIDSというものがある。
今現在でも原因不明の乳幼児の突然死だが、これはいくら解剖をしても原因がわからない。
窒息死ではあるのだが、その窒息の原因がわからないというのだ。
となると、ここに問題が潜む。
ある乳幼児の死は、窒息なのかSIDSなのか、というものだ。
どちらにも取れる、だからこそ問題となる。
窒息ならば保護者に責任がのしかかるし、SIDSなら一種の病死として扱われる。

その判断を下すのは誰か、という問題だ。
これこそ法医学者の出番ではないかと思われるかもしれないが、法医学者は解剖をしても詳細な検査を行っても死因がわからない場合は「不明」とする。
なぜならどちらか一方を選んだことで、冤罪被害者を作り出すかもしれないし、悲しむ故人を作り出すかもしれないからだ。
それでも法医学者がやるべきだ、という意見は暴論だろう。
法医学者は医者であり、医者は科学の徒なのだ。
科学的思考に基づいて不明なものは不明として置くことは、決して間違いではない。

間違いなのはこういった場合の責任の所在を明らかにしない行政なのである。
死因を決定する責任者が存在しないせいなのだ。

著者の怒りはそこかしこに現れている。
だが、これは読者たる私が読んでいて受けた感想なので、きっと著者が怖い人間なわけではない(と思う)。
なぜなら著者は法医学に、法医学の面からも資金繰りの面からでも真摯に挑んでいるからだ。

千葉大学で教授となり赴任した著者は、おどろくべき光景を目の当たりにする。
出刃包丁を使う解剖である。
そのへんで売っている包丁で、解剖をするのだ。
激しい衝撃を受けた著者は「これはいかん!」と、司法解剖を依頼してくる県警に資金に関する請願書をつづったが、受け取ってすらもらえなかったというのだから、著者の果てしなく長い戦いが始まったときといってもいい。

ここから著者の怒りがにじむ悲しみが始まったともいえる。
著者自身は、いつ解剖をやめてもいいとさえ言っている。
だがそのツケがまわってくるのは私たちだ。
身内が殺されたかもしれない遺体でも、解剖で死因を究明してくれる法医学者がいないのでは泣き寝入りするしかないのだ。
この現状を憂慮しないというのなら、お偉いさんはむしろその状況を歓迎するのかもしれないとさえ思えてくる。

法医学は必要だ。
何冊もの書籍で法医学者と出会った私は、強く思わされる。
今回の一冊は、法医学者としての職業というよりも、法医学者の存在の危機について記されていた。
発刊されてから10年以上が経つ。
状況は改善されているのだろうか。
おそらく、さほど変わっていないだろう。
どうか、一般市民が危機感を抱くことで法医学者の存在意義を確かなものに変えていきたい。
そのためにも、この著作は読んでおくべきだ。

この記事が参加している募集

読書感想文

サポート代は新しい本の購入費として有効活用させてもらいます。よろしければお願いします。