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授業を受ければ成績が上がるか

授業の回数=成績という心理

塾にいた頃も、学校に関わるようになった後も、単純に生徒の学力を向上させるためには授業をもっと増やさなければいけない、という思考に陥るケースがとても多いな、と感じています。

授業の方法によってその効果は大きく異なります。
むしろ、授業を増やし過ぎたら逆効果という可能性もあると考えています。

けれど、授業をする側も、生徒側も、
「授業をやっている事」や「授業を受けている事」によって、
安心したいという心理が働きやすく、どうしてもこの発想から抜け出せないという状況に陥りがちです。

実際に授業を行なって成績が向上するとしたら次のケースとなります。

①生徒の習得すべき知識事項が不足している
②生徒自身が考え、手を動かす時間が確保されている。

①生徒の習得すべき知識事項が不足している

これは生徒が学習すべき知識、情報が足りていない場合には、それを補うために授業を行ない、正しく伝達、理解をさせていくことによって、成績の向上を狙うものです。

教科書を教え、カリキュラムを進行するパターンの授業においては、ここに当てはまっていくかと思います。映像授業を受講するというケースもこのパターンになります。

生徒は受け身で知識を受け取るだけになりがちですが、知ることでできるものへの対処ができるので、あるレベルまでは一定の成果が期待できます。

ただし、例えばメジャーリーガーの強打者の打ち方を知ったら、自分も打てるようになるかと言えばまったく違うというのと同じように、一定以上のレベルでは実践やトレーニングが伴わなければ通用しなくなっていきます。

授業では分かったけれど、実際に問題を解いたらできない、というギャップがここで出るということです。

そのため、このタイプの授業を数多く実施しても、知識がある程度充足していけば効果は次第に減衰し、その時間から効果的な学びを得る割合が低下していくだけでなく、授業を増やしたことによる過剰な生徒の拘束は生徒が自分自身で考え、トレーニングする時間を奪う結果にもなり、かえって生徒の成長を妨げる可能性すらあると思います。

ただ、学び直しが必要な大きな知識的な穴が開いている場合は、その知識を穴埋めし、整理してあげるためにもこのタイプの授業がまずは必要だと思いますが…将来的にはAIによってatama+のような個別最適化も進んでいるため、人が講義をするより効率的に学び直しができるようになっていくことでしょう。(ただ、その場合も人が関わってサポートしなければ成立しないと思います。個別最適化によって学習者を孤立させる結果になれば、システム的には効率的になっても、学習者自身の学習意欲そのものを低下させる可能性が高くなると考えています。)

よって、このタイプの授業が成果を挙げるのは、知識を提供することで生徒側に得られるものが大きい場合に限られ、知っていることで対処できる問題に対しての成果が期待できるが、技能を習得するという意味においては成果が乏しく、知識を活用するレベルに引き上げるという効果は得られにくいということです。

さらに、このタイプの授業を増やし過ぎて生徒を拘束することで、生徒が自分自身で練習したり、試したり、掘り下げたりする時間を奪う結果になってしまうと逆効果にもなり兼ねないので、適度な時間設定を行なう必要があります。

なので、授業を単純に増やせば良いわけではない、と考えている訳です。

②生徒自身が考え、手を動かす時間が確保されている

では、どういう授業を増やせば良いのか。

それは「わかる」だけでなく「できる」に変えていくための仕掛けを組み込んだ授業です。

簡単に言えば、生徒がこれまでインプットした知識を、自分で考えながらアウトプットし活用する機会を持たせる授業を増やすということです。

そうなると、要はアクティブラーニングをやれば良いという話になり、論点がズレてしまいそうなので、アクティブラーニングの目的を確認してみようと思います。

文部科学省は
・どのように社会・世界と関わり、 よりよい人生を送るか
 (主体性・多様性・協働性 学びに向かう力 人間性 など)
・何を知っているか 何ができるか
 (個別の知識・技能)
・知っていること・できることをどう使うか
 (思考力・判断力・表現力等)

この3点を育成すべき資質・能力の三つの柱としており、それらの資質・能力を育成するために「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」を実現するための方法としてアクティブラーニングが推進されています。

これに併せて大学入試も知識の活用を重視する傾向に変わりつつあり、いよいよ知識を知っているだけではなく、「知っていることをどう使うか」という観点が重要になってきています。

人間は自分自身に何ができるか、という可能性も見えない内から自ら動いてレンジしたいとは思えないものです。

なので、上記の三つの柱は順番があるようにも思います。

①何を知っているか 何ができるか
 →これによって、考える土台を作り、可能性を考えるきっかけを生み出す

②知っていること・できることをどう使うか
 →知識を実際に使ってみて、使い方を習得し、できることを増やす

③どのように社会・世界と関わり、 よりよい人生を送るか
 →できることが増えると、チャレンジできる選択肢が増え、
  主体的に社会とどう関わりたいかが見えてくる。

そのため、アクティブラーニングを行なうにしても、単に話し合わせたり、調べ学習をさせれば良いのではなく、将来的に生徒が主体的に動きたいと思えるようにできる事を増やし、自信を与えていくのか、という狙いを持つことがとても大切です。

それがきちんと演出できていると、生徒が自分で走り出し、与えた知識を超えたレベルに自分で走り出そうとします。

さて、話を戻すと

「わかる」だけでなく「できる」に変えていくというのは、単に演習やテストをやらせれば良いのではなく、学んだ知識を活用する機会を与え、失敗も含めた経験を通じて、乗り越えた体験をさせ、自信を与えること。そして、自信を与えたことによってもっとチャレンジしたいという意欲を引き出し、挑戦できる機会を与えること。

これを意図して演出できているかどうか、が重要なのだと思います。

単に問題を解かせ、解答を読み上げるだけの授業で、自分は生徒を動かしているからアクティブラーニングだ、と主張する方もいるのですが、その先に自分で主体的にやってみたい、深い学びにしたい、というマインドセットをしていける仕掛けが伴わなければ、それは単なる作業時間になるだけのことです。

安心感だけではなく、手応えを得られる授業へ

ただ、安心感を与える授業というのも必要であることは否定しません。

受験生が直前期に、自分で勉強したくても手につかない状況下で、授業を受けていた方が安心するし、落ち着く、というケースも実際にあります。

なので、そういった状況では安心感を与えるためだけの授業というものも必要だと考えています。

しかし、普段の授業においては、やはり生徒の成長を第一に考えたいと思いますので、そのバランスを大切にする必要があります。

上述した2つの授業のタイプについても両方が必要で、①のような授業が悪いわけでは決してなく、知識を正しく伝達し、生徒がインプットをする時間も確かに必要です。講義形式の授業は効果が無いという話を耳にしたこともありますが、アウトプットだけの授業では残念ながら表面的な活動にしかなりません。

もし仮にすべての授業をアクティブラーニングにするのなら、インプットの部分は家庭学習でしっかり完了することができている前提で、それが無ければ深い学びは成立しません。

なので、インプットとアウトプットの割合を段階的に変化させ、生徒の自信と主体性の向上に伴って、最終的に自ら家庭学習で準備し、学んだ成果を授業で試しにくる形になれば理想的なのだろうと思います。

要するにバランスの問題なのだな、とつくづく思う次第です。

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