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未来の学校を考える-Vol.3

学校とは何のための学びの場なのか

私は現在、私立中高一貫校に在籍していますが、元々は建築設計事務所で勤務し、進学塾講師を経て、学校現場に携わっています。

大学を卒業し、建築事務所で働くようになり、幸せなことに働き方は非常にブラックであったものの、とても刺激的なプロジェクトに数多く関わらせて頂き、数多くの刺激を受け、現在は学校改革に関わる仕事をしていますが、考え方のベースはすべてこの時代に身につけたといっても過言ではないくらいに濃い時間を過ごさせてもらいました。

ただ同時に、自分自身の至らなさも数多く見えてきてしまい、求められる姿とのギャップにも悩み始め、実務的な経験を踏まえた上で、もう一度きちんと勉強をしたいという欲求が次第に大きくなっていき、遅まきながら学ぶことに専念できる時間の大切さを感じると共に後悔もしていました。

そして、激務であったもあり、体力的な限界も感じていたことも重なり、大学院でもう一度学問としての建築に向き合おうと考え、大学に戻りました。

さて、そうした経験も踏まえて
学生は何のために学校で学ぶのか、ということについて話していきたいと思います。

私は、学校における学びは大きく分けて3つあるだろうと感じています。

①基本的な学力の担保としての学び

1つ目は
基本的な学力の担保としての学び。
貧困国と言われている国における乳児の死亡率はこの50年間で着実に下がってきています。例えばヨルダンにおける乳児の死亡率は1960年で1000人中107人が亡くなっていたのに対し、2019年では1000人中13.4人と大幅に改善しています。

このように貧困国における乳児の死亡率が減少している要因はワクチンなどの接種率向上や母子手帳の導入により適切な健康管理・情報共有が可能になったことが大きいと考えられますが、母子手帳の中身をきちんと理解できるようになるための成人の識字率の向上がその土台を支えているとも言えるようです。(ヨルダンの識字率:1979年66.8%→2018年98.2%)

これはほんの一例で極端な話かも知れませんが、教育を受ける機会があるということは人の命を救うことにも繋がるという好例だろうと思います。よって、基礎学力を担保するということは、子ども達の生きる力の土台作りであると考えることができるでしょう。

②自分の可能性を広げるための学び

そうはいっても、最低限の基礎学力だけでは自分の未来を切り拓き、社会に貢献するような活躍の機会を得る可能性はあまり高くないという現実にぶつかってしまいます。

よって、2つ目は
学問としてより高度な知識を習得することで、自分の可能性を広げるための学び。

過去の私はこの2つ目の学びの価値を理解していなかった。基礎学力と同列にこの学びを受け身に捉えてただタスクをこなしていただけであったと反省をしています。

もし仮に、早く自分の未来の可能性を拡げるために学ぶという意義を見出していたのであれば、違う人生を歩んでいたかも知れない。そんな風にも思います。

しかし、当時はそんなことにも気付くはずもなく、就職してから学ぶことの価値に気付いて大学院に入り、研究と学び直しをすることになった訳です。

そして今、進学校としての私立中高一貫校にいると、とても大きな違和感を感じることがあります。それがまさにこの部分で、「自分の未来を切り拓くため」→「いい大学に合格するため」→「学びとは受験からの逆算」→「受験勉強以外は不要」という発想に支配されがちであるという点です。

確かに自分の可能性を拡げ、より多くのチャンスを得るために偏差値の高い大学に進学するという側面はあると思いますし、塾講師として仕事をしていた頃はそういう思考で授業をしていました。「点数が取れる力」=「学力」という図式です。

点数が取れることは今でも大切だと思っていますが、それは結果として点数が取れる力であって、目標の一つではありますが、目的ではないと考えています。
単に知識を暗記させるのではなく、それらをどのように活かすのか、という考え方や知恵を共有し、それらの道具をきちんと使えるようにトレーニングさせていく、そうした習慣を定着させていくことが大切で、その先にあなたならどう活かすか、という問いを投げ続けることで学びを社会とつなげようとする意識付けを行なうことができれば、テストも所詮は活用の仕方の一部分であって点数は取れるはずです。

また、素晴らしいアイデアや閃きというのは、何もないところに突然湧いてくるのではなく、幅広い知識を持った上で、常に課題に対してアンテナを張っているからこそ、些細なきっかけを逃さず自分の課題と結びつけてアイデアや閃きとして昇華することができるのだと思います。

私自身も建築学科で意匠設計を志していた学生として受けた講義の中で、先生から常にスケッチブックを持ち歩き、気付いたこと、気になったこと、得た情報などをメモしながら、いつもアンテナを張って考える癖をつけなさい、と教わったので、初めは格好付けでスケッチブックを片手に行動し、次第にそこに気付いたことやアイデアをメモし、アンテナを張るようになっていったら、唐突に「これだ!」というアイデアを閃くという体験を何度も味わいました。それを私の中では「神が降りてきた」と表現していました。

ただ、私の場合、課題の締め切り間近の追い詰められた状況でしか起こらない現象だったので、いつも辛かった記憶しかありませんが、「これだ!」という発想を生み出す源はベースになる知識を蓄えることはもちろん、それを活かそうとする意識とあらゆる情報に対して結びつけて使えないかとアンテナを張る習慣があってこそ出てきたものだろうと思います。

ですから、単なる知識を教えるだけではなく、それをどのように使うのか、周りの課題に知識をどのように活かすか、様々な情報とどう結びつけるか、ということを経験させ、習得させることが「自分の可能性を広げるための学び」の目的であり、その副産物として点数も取れる力もつくでしょう。よって、この学びこそが、未来を切り拓こうとする学生にこそ必要な学びとなるのだろうと思います。

③失敗や試行錯誤を通じて得られる経験としての学び

そして3つ目が
失敗や試行錯誤を通じて得られる経験としての学びです。

学校とは失敗のできる場であるべきだと思います。

人の生き死にや犯罪になるような失敗は防ぐ必要がありますが、そうではない取り返しの利く失敗については大いに経験をさせ、そこから多くを学んで欲しいと思います。

PDCAサイクルというのは、成功サイクルの連続を言うのではなく、成功も失敗も含め、その結果を検証し、より良いアクションへと変えていくためのサイクルです。そして、学校での失敗によって、世界に大きな犠牲をもたらす、とか、多くの従業員の生活に関わる、などということは起こらないので、社会に出たらリスクを考え、いかに失敗しないか、たとえ失敗しても被害を最小限に留めるにはどうしたら良いかということが優先させ、どうしても思い切った決断は難しいというケースが多くなりますが、学校で発生する判断であれば多くの場合、そこまでのリスクを負う必要がありません。

それなら、成功することばかりでなく、思い切って失敗することもまた学びに転換することができるはずで、敷かれたレールの上で成功だけを経験してきた人には得られない学びを得ることが可能になるのです。

例えば起業をして、10年後も存続している確率は6%だそうです。

人生の中で起業をするというチャレンジは一世一代の大勝負であることが大半で、開業資金は業種や業態にもよりますが、数百万の投資を行ないますので、何度もチャレンジできるものではありません。

それであるにも関わらず10年で存続する確率は6%という現実は起業へのチャレンジそのものを躊躇わせるのに充分な数値と言えるでしょう。

ですが、学校の文化祭で模擬店を出店しようということであれば、借金を抱えることなくチャレンジが可能です。学校がどのように資金を提供し、出店者にどのような事業計画を立てさせるのか、をしっかり行わせていくと、それは小さな起業のシミュレーションと言えるでしょう。

これはこうしたイベントごとに限らず、日常的には学習法について定期試験や小テストといった結果を基に失敗や成功の要因を分析し、改善をさせるということや、人間関係においても良好な友人関係、高め合うライバル関係、共に助け合う関係、そして様々な人間同士の軋轢などを経験することも同様であり、こうした大小様々な成功や失敗を経験させ、改善につながる体験をさせていくこと自体が大きな学びとなるのです。

3つの学びのバランスを考える

以上の3つの学びは共存できると思っていますが、発達段階や目標によってウエイトを変えていくのが良いのだろうと考えます。

例えば中高の6年間というスパンで考えるなら、全体を3つの時期に分け、初めの2年間は①のウエイトを大きめにし、次の2年間は②と③のウエイトを上げ、最後の2年間は②のウエイトを大きくしていくという具合に・・・

そのバランスを上手にコントロール・演出していくカリキュラムデザインが今後の学校には要求されていくことでしょう。

では、最後に何のために学ぶのかという問いに戻ります。

やはり学びというものは生きる上での知恵を得る行為であり、人類としての文明を発展(または持続可能な社会を構築)させるためのものであると思います。その意味で、一人一人がそれぞれの形で社会に小さな貢献していくために、そして、いつの日か「これだ!」という閃きを生み出して大きな貢献をできるチャンスをつかむための力を蓄えるために学ぶ必要があるのです。

当時の私はその力が充分に蓄えられていなかった。だから社会から求められる要求と自分の蓄えていた力のギャップに悩み、もう一度学びたいという欲求が生まれたのだと感じていますし、その結果として得た学びは財産になりました。

ですので、次世代の子ども達にはどういう形であるか分かりませんが、もっと上手な形で、学ぶ意味を伝えられるようになったら良いなと思います。

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