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2019.11.03 紫髪のあの人と弱い自分

この日の日記をnoteに書こうとしたものの、なかなか重い腰を上げることができなかった。たいていの恥ずかしいことは打ち明けてきたつもりだが、特にこの話に関しては自分の弱い部分と向き合って、さらけ出す勇気が必要だったのだ。


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学祭のクイズコーナーで先輩と司会をしてきた。学祭の中でもあまり人気のない企画だった。お客さんの中からクイズの参加者を募る形式だったが、募ったらほぼお客さんがいなくなるという、クイズに参加する人数≒お客さんの人数、くらいだった。

司会としてフリートークや先輩との掛け合いをいろいろ頑張ってはいたが、みんなクイズを考えていて、むしろこっちのトークが邪魔になっているのでは?と思った。そのトークがウケたかウケてないかは抜きにして…。

こうやって(運良く落研に舞い込んだ ※1 )学祭の司会とかガンガンやっていかないと、積極的に学祭に参加して楽しむというのは難しいと思う。依頼として呼ばれない限り学祭なんて行かないじゃん。1人で行ってもメンタルがズタボロになるだけだし。

でも学祭を楽しめない人間はこの先の人生に暗い影を落とすわけじゃん。大学生という華の時代に「青春」という穴が開いては生きていけないよ。学祭で落研がお笑いライブをやったこともあったらしいけど、今年は行われなかったみたい ※2。

あちこちにあった出店には「〇〇ゼミ」と書いてあった。ゼミに入れば仲間と協力してそういうことやるんだろうな。でも俺、この年まで生きていて自分の人生が自分の思うように行ったためしがない。ゼミだってきっと「出店をしない方のゼミ」に入ってしまうんだろうな ※3。いつまで経ってもゼミで学祭の話が出ないなぁと思いながら当日を迎え、よそのゼミを羨ましく思うんだろうな。

全然自分の人生が上手くいかん。ライブハウスでバイトすることもできん ※4、やっとのことで入った清掃バイトはじいさんばあさんばっかりで「バイト先の友達」なんてできやしない。その上パワハラばあさんにビクビクする日々。

何なの?大学生活をエンジョイしてるヤツと俺の違いって何なの?接客が恐怖で明るいバイトができず(居酒屋とかレストランとかファーストフードとかショップ店員とか)、朝に1人で黙々と清掃をしている俺との違いって何?

ただただ髪の毛を黒・茶・金以外にして、そんな簡単なことをしているだけなのに周りからチヤホヤされてカッコいい扱いを受けているヤツとの違いって?俺と彼女がいるやつの違いって?

そんな人簡単よ、向こうはちゃんとした心ってのが無いんだよ。心が無いから平気な顔して接客のバイトができる、髪を染めるだけで満足できる、大胆に告白できる、緊張せずに女子と喋れる、あたかも息をするように。

俺は下手に心を持ってしまったから、あらゆることに防衛本能が働いて身を守ろうとする。結果こうなる。羨ましいよ心ってのを持ってないヤツらが。

これはあくまでも嫉妬ね、皮肉じゃなくて。


※1 うちの大学は例年、学祭のいろんな企画の司会進行を落研の部員に依頼するという流れがあるらしい。落研にネタの面白さじゃなくてMC能力を求める大学って何だよ。早稲田や慶応のお笑いサークルもこんなことやってんの?

※2 先輩達の代で1回だけ学祭でお笑いライブを敢行したことがあったそうなのだが、学祭実行委員会からキャンパス内の隅っこの場所しか与えられず全くお客さんが入らなかったため、もうやるかこんなん!となったとのこと。

※3 結局その後に入ったゼミは出店をやらないゼミだった。たぶんだけど学部によって出店をする・しないが決まっていたのだろう。経営学部が実際の商売を経験するために出店を出す、とかだったんじゃないかな。

※4 その話はこちらにて。


あまりにも暴言であり、あまりにも自分の弱さを棚に上げているのだ。ひどいよ「心が無い」なんて。もっとひどいのが「俺は下手に心を持ってしまったから」である。中学生の日記ではない、大学生の日記でこれである。

いつかこの弱さと向き合わないといけないと思っていたのだが、ずっとずっと先延ばしにしてばかりだった。そうこうするうちにnoteを書き始めて丸4年、5年目に突入する今の今まで書けなかったのだ。

基本的に成長して文体がしっかりしてきた高校生以降の日記は、勢いのままに書き殴って後にそれを後悔するなんてことは無くなってきた。しかしこの日記は書いた後にずっと苦い気持ちが残り続けていた。なかなかに珍しいことである。

特に髪を染めてる人へのやっかみの部分だ。カラフルに髪を染めてオシャレしている人への敵対視が、情けなくて、みっともなくて、何でそういう部分で大人になれないんだろうかと悩んでいた。

日記本文にもある学祭のクイズコーナーの司会の話なのだが、打ち合わせを担当してくれた学祭実行委員の同学年の人がいた。クイズのシステムとか台本の受け渡しとかで何回か打ち合わせを重ねていた。なんとなく話の合う人だったのを覚えている。

出会った頃は特に髪を染めてるワケでもない黒髪の人だったのだが、ある時突然、髪を紫に染めてやって来た。なんてことない出来事、のはずだった。

当時の俺は「あっ、紫だ」と、必要以上に衝撃的な気持ちになったのを覚えている。オシャレをやってこなかったから、大学生になりたてだったから、田舎の生まれだったから…。やろうと思えばいくらだって言い訳ができる。

そのリアクションが、その驚きっぷりが、みじめなのだ。みじめに思うことをみじめに感じるという、情けなさのマトリョーシカである。変な負のループ。

染髪ぐらいで何をそんなにゴチャゴチャ考える必要があるのか、ないのである。誰が髪をどうしようが勝手なのだし、それによって自分の価値が上下されるとかもない。極論「知らんがな」でしかない。

どうして当時、目の前の人が髪を染めるだけで劣等感を抱いていたのか。自分が勇気が出なくて髪を染めることができないという事実を、髪を染める側の人間を心の中でバカにすることで、正当化していたのだ。

髪を染めるというのは自分の中身に自信が持てない人間のやることであり、見かけ倒しにすぎない。自分の人生に胸を張れる人間は、外見なんかいじくらなくたって毎日に満足できる。…はずだった。

そんなことなかった、そんなわけではなかった。自分にできないことを誰かがやってのけてる、そんなことくらいで動揺しているうちは人生まだまだでしかない。本当に弱い人間なんです、俺は。

自分ができないことを数えるよりも、自分にできることを数えた方が生きやすい。そのことに気付かされるのは、もう少し後の話。俺はこれができるからそれでいい、俺ができないことはお前に任せた。それを諦めと言うのならば、世間が俺に期待しすぎてるのだと思う。

今の俺はできるだろうか。久しぶりに会った友達が髪をカラフルに染めていた時に、平常心でいられるだろうか。今更何も感じない不感症にはなれないが「めっちゃええやん!」と、キュウの清水さんみたいなことを言おうと思う。

結局自分にできないということには変わりないから、だったらその代わりに友達を尊敬すればいいじゃん。だって髪を染められなくたって俺ができることは他にあるって知ったんだから、気落ちしなくたって大丈夫だよ。

心の中にリトルキュウ清水を飼う、そしてこの世界を「めっちゃええやん!」「いいでしょう!」と肯定する。人類にとっては小さくとも、個人にとっては大きなライフハックだと思う。…何だよリトルキュウ清水って。