2017.12.24 何も学んでいない、ということを学ぶ
総合のキャリアプランニングで、進学希望先の学部に関係する本を読み、1600~2000字の小論文を書くという課題がある。豊島ミホさんの『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』を読んだ。
スクールカースト下層の著者が保健室登校・卒業・大学・就活・執筆活動・精神破綻・ニートを経て「憎しみ」「恨み」「傷」との向き合い方を模索するという内容。自分が傷つける人が持っている価値基準「相手ルール」を採用したら最後で、自分ルールで生きていくしかないとのこと。
「君の幸せだけが、君に起きたいろんなことに対する復讐なんだ」という、よしもとばななさんの小説 ※1 の一文を引用していた。自分の幸せが大嫌いなアイツに対する最大の復讐方法だと知ることができて良かった。
自分にとっての幸せって何だろうか、言うなれば深夜ラジオの常連ハガキ職人になれたということが一番だ。
今まで日記でもハガキ「職人」という表現を使わないようにしてきたが、自分に自信を持ち、傷つけられることが当然と思ってしまうような自分から脱却するためにも、自分に「職人」という言葉を使ってもいいようにした。
というかメールを送り始める前の自分からしたら、コーナーにメールが採用された人全員がハガキ職人だと思ってたし、今だって自分以外の読まれた人全員のこともハガキ職人だと思ってる。
三四郎・オードリー・ハライチ、ラジオのスタッフや作家、そしてリスナーを笑わせている。そうやって自分が、勝手な解釈かもしれないが「人のためになっている」と思ってる。
別に「大嫌いなアイツよりも人の役に立っている、おもしろい」ということではないが、自分はあんな仕打ち(中3のフォークダンス ※2)を受けて当然なんかじゃないと思えることが、自分は誰かのためになっていてI※2 がひどい人間だったと思えることが、唯一の復讐だと思う。メリークリスマス ※3。
※1 『彼女について』という1冊より引用。
※2 中3の体育祭でIというクラスの女子に手をつなぐことを拒否された話。詳しくはこのエッセイにて。
※3 高2のクリスマスイブに何書いてんだよ。
17歳の自分は幸せ・誇り・努力・復讐についてグルグル考えてこういった文章を残していた。芸人ラジオにネタを送り続けることが、こんなにも自分に力をくれたんだな。
だからといってこの後の7年間でもう誰に対しても妬まない誇り高き日々を送れているのかというと、そういうわけではない。相変わらず妬ましいヤツは妬ましいし、ないものねだりも止められない。
ただ、それはあくまでも自分の人生の平均を取った場合の話である。長らく日記をつけてその時々の自分を観察してみると、時に調子に乗ってるくらいに自分を肯定し、時に病的なまでに憎悪の炎に燃えて、そんなことの繰り返しなのだ。
肯定して、情けなくなって、また肯定して、また情けなくなって…。それの繰り返しだ。人生には波がある、良い時があれば悪い時もある。同じ肯定の仕方をして、同じ情けなさに襲われる。先月はガンガン行こうぜという攻めた気持ちだったのに、今月はいつの間にか自分の出生を恨んでいる。
高2でこういったある種の悟りを開きかけたものの、大学生になったらキャンパス内のイケてるカップルを見て空しくなる日々に逆戻りした。たしかにあの時自分のことを認められたはずなのに、また自分の欠点ばかりあげつらっている。
結局何も学んでいないのだ。どれだけ自分の背中を押そうとも、どれだけ自分を奮い立たせようとも、何もできない時は何もできないし、自己否定している時はそんなことしかできない。そして嵐に耐えているうちに、いつの間にかまた調子に乗っている。
自分を愛する方法を知ったはずなのに、いつの間にか忘れてある日突然思い出す。浮かれ気分と沈んだ気持ちが代わりばんこにやって来る。同じことの繰り返し、根本からは変われてない、いつまで経ってもこんな自分のまま。
「何も学んでいない」ということを学んだ。自分は変わったはずなのにと焦る気持ちも昔はあったが、本当は学んでいないし変わってもいない。自分のことを高く見積もっていたからこそ、そうなれてない現実とのギャップに苦しんでいるというメカニズムが分かった。
年を重ねるにつれて変わらないといけない、いつまでも未熟なままな自分ではいけないと思っていたが、そう思ったところで変われないものは変われないし、そんなプレッシャーを捨てることが必要な気もしている。
幸いにも、生まれてから今の今までずっと気分が沈んでいるわけではないというのが唯一の救いだ。気分に波がある、浮き沈みがある。ということは今は沈んでてもいずれきっと浮き上がる時が来る、俺はずっとそんな人生を送っている。
そう考えると高2の時の自分がこんなにも攻めた日記を、あたかも悟りきったかのような言葉を、つらつらと書いていた、その向こう見ずっぷりに感謝している。
「豊島さんの本を読んで大切なことを教えてもらったけど、どうせ来月には忘れちゃうんだろうなぁ」なんて二の足を踏んで、自分のことを調子乗ってると卑下して日記を書く手を止めていたら、この心の高ぶりを本当に忘れてしまうところだった。
イケイケな日のことも日記に書く。情けない日のことも日記に書く。自分の性格を片方に決めつけずに何だって書く。そうやって見えてきたのが「自分は成長していない、変わってない、何も学んでない」ということ。
これは決して絶望ではない、むしろ希望だ。自分は自分のことを肯定できて、認めることができて、褒めることができて、誇らしく思える日だってあるという、決定的な証拠なんだよ。あの時の自分ができてたのなら(何ら変わってない)今の自分だってできるはずじゃんという自信につながる。
話は変わるがこの本に教えてもらったことは他にもある、今も忘れられない豊島さんのエピソードがある。豊島さんがスクールカースト下層の孤独を経験したからこそ吐き出した言葉を、今も胸に刻んでいる。
母親の料理の手伝いをしていて、みそ汁を作っていた。その日はなめこのお味噌汁で、母親からなめこのパッケージを捨てるように言われた。しかしそのパッケージになめこが1つ残っていて、そのことを母親に言ったら、いいから捨てといてと言われた。
その時にとっさに出た「入れてよ!だって私みたいじゃん!」という叫びが、俺の人生訓になっている。気にも留められず危うく捨てられかけた1粒のなめこ、まるでクラスで疎外されてる私みたい。そんな残酷なことしないでよという怒り。
その日から俺はメシを食う時に、ご飯粒1粒、キャベツの千切り1本、ゴマ1粒残さず完食するようにしている。そういうことではないのかもしれないが、とりあえず食事ではそういうマナーを守るようにしている。
別に人間のように心と意思を持った生物ではないのだが、それでも「命を頂いている」というのは事実。メシに感情移入してみると、もしも俺が米に生まれ変わって、熱い思いをして炊かれて、なのに俺1粒だけ残されて排水口に流されるなんて、悲しくて泣いちゃうと思うんだよなぁ。
メシすら雑に扱うような人間に、人の心なんて寄り添えるわけがない。俺はそう信じている。温かい心、強さと優しさを兼ねそろえた人間性というのは、こういうところから作られていくんだと思ってる。