2023.07.27 この世界は美しい
散歩して路上観察をして写真に撮って、それをTwitterに上げるようになってから1年以上経つ。それまではテレビの感想とかネタツイをメインに呟いていたけど、写真を上げるようになってからはTwitter上での口数が減ったような気がする。
ノーコメントで写真だけ上げる、それを1日1回。特に最近は精神的に病んでいるから、周囲に心配もかけたくないし、迂闊に何も言えなくなっている。だからしばらくはこのまま、Twitterやってるくせに口数の少ない寡黙な人でいようと思ってる。
路上観察って言ってるけど、京都から富山に引っ越してからは街中の写真よりも自然の写真の方が多くなってきた。建造物とか街中の写真をよく上げていたはずなのに、最近は田んぼ道を歩いてばっかりである。観察対象が無いのだ。とりあえず農業用水路とか田んぼ道は大好きだから、路上観察自体は継続している。
こないだ国道沿いの中規模な公園を歩いてて、いい水辺があったから写真に撮ってTwitterに上げた。ありがたいことにネット上の友達から「写真うまいよね」というリプライが来た。
嬉しくはあるのだが同時に、ちょっと違うんだよなぁという感覚もある。俺は写真が趣味なのか?と自分に問うてみると、そういうワケでもない気がしている。
ゼミの友達に写真が趣味だと言う人がいる。彼の写真を見ると「こういうのが『写真が趣味』なんだろうな」と思わされる。カメラ自体にもこだわりがあって、フィルムカメラで現像の手間暇もかけるし、淡いセピアのエフェクトもかける。
「淡いセピアのエフェクトもかける」という語彙力しかない時点で、カメラ・写真のことなんか何にも知らないんだなってのが分かる。iPhoneのデフォルトのカメラアプリの、デフォルトの設定で撮ってるだけの人が、写真が趣味とは言えないし、写真が上手いワケがない。
おそらく、人物写真かそうでないかという違いがあるんじゃないか。彼は人物写真をよく撮る。人物写真は難しい。生活の中のほんの一瞬を切り抜いたり、被写体の魅力をを引き出したり。そうした技術が求められるから、彼は写真が「上手い」。
俺みたいな、建造物や川、定礎みたいな「動かない物」しか撮らない人が、写真が上手いだなんてもてはやされてるなんて、少し話が違ってくるのではないだろうか。俺の趣味は路上観察で、そのツールとして写真を選んだというだけだ。カメラはあくまでも手段。
それでも俺の写真がいいと言ってくれる人がいるのであれば、それは俺の写真のテクがどうこうじゃなくて、この世界に美しい景色が多すぎるだけなんだと思う。
そしてカッコつけたことを言わせてもらうと、俺は写真のテクはないけど、この世界の美しさに気付く能力は他人より頭一つあると思う。そういうセンサーが他人より強いってことなんだと思う。被写体の魅力を引き出すことはできないが、そもそも魅力的な被写体を見つけ出すことはできる。
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人物写真を主とするそのゼミの友達からも「お前の写真、なんかいいよなぁ」と言われたことがある。上げる写真に毎回いいねを押してくれる人もいる。
路上観察の話となると「何かを撮り集めたいという気持ちはあるんだけど、いつも10枚くらいとったところで満足してやめてしまう。数百枚も撮り集めて、それでもなお飽きないお前の執念が凄い」というリアクションをされる。
街歩きの中からいい風景・対象物を見つけ出すという才能は、万人にあるものではないのかもしれない。しかし誰かが見つけ出した写真に「君の写真、なんかいいよね」と思うのは、誰にでも湧き上がる感情なんだろうなと思う。
だからみんなもスマホを持って、外に繰り出してみればいいのにと思う。みんなが撮った写真だって、十分美しい1枚になっていると思う。ちょっと視線を上げて、時には空の様子とか眺めたりしちゃって、その先に見惚れるようなら、カメラアプリを立ち上げるだけである。
いつも何気なく歩いてる道、気になったことはあるけど入ったことは無いお店、定礎・公衆トイレ・農業用水路・レンタルサイクル・バス停・公園・年季の入ったアパート…。この世界は美しい、俺は自信をもってそう言える。
国道沿いにある中規模な公園の、有名アーティストが指揮を執ったわけでもない、何でもないただの水辺。そんな写真にいいねと言ってくれる人と、生涯のお友達になりたい。俺の写真テクが上手いのではなく、君の審美眼が鋭いのである。
話にも挙がったことだし、久しぶりに彼が撮ってくれた俺の人物写真でも見返してみようかな。いい感じのエフェクトがかかってるんだよなぁ(語彙力ゼロ)。