子ども目線でのおとなは「灰色の男たち」に見えるかもしれないけど、大人から見た子供だってだいぶ窮屈だよ?

noteを書くために投稿画面をひらき、何を書こうか?と思考を巡らせ、すっ・・とキーボードに手を乗せるとき。

これって、子供のころに何を弾こうか?と考えて、すっ・・とピアノの鍵盤に手を乗せる瞬間とおなじだなと、遠い記憶がよみがえりました。

そして今日、たまたまチキンが苦手という話を友人にしていたときに

子供のころ父親に手羽元の煮込みスープを食べさせられて、ぎっとぎとの鶏のエキスが出まくっているその食材を絶対に食べたくないんだけど、「断る」という選択肢がなくて、食べた後トイレに行くふりをして吐き出した記憶をおもいだしました。友人には、「それがトラウマなんじゃない?」といわれました。

親って、大小さまざまな形のトラウマを知ってか知らずか、子供に負わせてますよね。子供にとっては絶対的な存在であるからして、その暴力性を忘れないようにしたい。(私はまだ親になってないけど)

遊びをきめるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、何か役に立つことを覚えさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。

7日間ブックカバーチャレンジでミヒャエル・エンデの『モモ』を紹介したのだけど、「子ども」目線でみたときの「おとな」の窮屈さが描かれている。でもね、大人から見た子供だって窮屈だよ?

子供の頃に戻りたいか?と聞かれたら・・わたしは戻りたくはない。その日の衣食住を思い悩むと言うことが幸いにはなかったし、それなりの愛情を受けて育てられてきたけれど、子供は子供なりの不自由さや、理不尽なことに振り回されて傷ついたりもしていた。あの頃だって大変だった。保護してもらうべき存在であることは、それなりの窮屈さを伴うものなんだ。

互いに客観的にみたら思うところはある。でもその立場の気持ちは、そのときになってみないとなかなか分からないよな。分かり合えないからこそ、それ前提で逆の立場と向き合う。または同じ目線になろうとすることこそが、生きるってことだよなあ。親として毎日子供と関わりあっている大人たちは、すごい。そして、子供も。

おつかれさま、そしておやすみなさい( ˘ω˘ )スヤァ…

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