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在韓歴20年、在日コリアン3世 朴香樹(パク・ヒャンス)さん

韓国在住の朴香樹(パク・ヒャンス)さんは、在日コリアン3世。関西に生まれ育ったが、1999年に語学留学のため韓国に渡り、結婚を機に定住。現在は韓国人のご主人、ふたりの娘さん(中学生と小学生)と共にソウル郊外で暮らしている。

幼い頃は在日コミュニティにどっぷりつかって育った。家族は総連と近い関係にあり、父親は総連関係の銀行に勤めていた。香樹さん自身も、高校までは朝鮮学校で学んだ。母方の叔父一家は、日朝政府が推奨した帰国事業で北朝鮮に「帰国」した。

(*日朝両政府が推進した帰国事業では、1959年から25年間で約9万3,000人強の在日コリアンの方々(約6,800人の日本人配偶者ら日本国籍含む)が北朝鮮へ渡った。*論座時事ドットコム新潟日報参照)


高校卒業後、朝鮮大学ではなく、日本の大学に進学することを選んだ。当時、周りではそういった進路は非常に珍しく、親戚や周囲の反対も一部あった。しかし、慣れ親しんだ在日コミュニティを出て、もっと広い世界を見てみたかった。

大学入学後、すぐにハワイの大学に留学。ホームステイ先の日系アメリカ人の家庭との出会いが、ひとつの大きな転機となった。

「ホストファミリーにとって、日本は自分たちの先祖がやってきたところ。日本文化と東京でのお買い物が大好きだから、日本も大好きととてもシンプル。そして、彼らは何のためらいもなく自分たちをアメリカ人だっていうんですよね。彼らの日本とアメリカの見方は、わたしとはまったくちがう。すごく驚きました」

また、ホストファミリーの自分への向き合い方にも感激した。

「彼らにとって大事なのは、わたしという個人なんです。日本在住の朝鮮籍の在日という属性ではなくて。ホスト先のお父さんは陸軍の高等士官で、当時アメリカと北朝鮮はかなりの緊張関係にあった。でも、お父さんはわたしをただひとりの個人として見てくれました」

日本では常に自分の属性を意識し、自分自身を「韓国系(あるいは朝鮮系)日本人」と認識したことはなかった。ホストファミリーと自分の考え方はどうしてこうも異なるのかと、衝撃を受けた。

ハワイで2年、大阪で2年の大学生活を終えたあとは、日本でマスコミ関係の仕事を始めた。

その頃、母親と一緒に北朝鮮を訪れることになった。朝鮮学校時代の修学旅行先が北朝鮮だったため、2度目の訪朝だった。当時、北朝鮮に渡った叔父一家と連絡がとれなくなって久しく、直接探しに行くことが目的だった。しかし、現地では叔父一家との面会は許可されず、北朝鮮の政治体制への失望と怒りを強める結果に終わった。日本に戻った直後、一家全員が朝鮮籍を放棄し、韓国籍を取得した。

このことがまた大きなターニングポイントとなり、それまで訪問すらかなわなかった韓国にも行ってみることにした。仕事を辞め、短期語学留学という名目でソウルに向かった。

半年間の滞在予定だったが、韓国人の男性と出会って結婚することになり、定住。

10年程前、ご主人の駐在帯同のため、東京で生活をする機会があった。当時、日韓の外交関係は劇的に悪化。上の娘さんは日本の小学校に通っており、今でも連絡を取り合う親しい友人とも出会い貴重な経験をしたが、嫌な思いをすることもあった。4年間東京に住んだあと、韓国に戻った。

韓国で生まれ育った一般的な韓国人に比べ、自分は特殊な位置にいると考えている。北朝鮮と日本をより深く知っていて、韓国語、日本語、英語を話す。韓国社会は日本と比べ変化のスピードが早く、人々も変化により柔軟に対応してるため、自分のこのユニークさは、韓国でより受け入れられているように感じている。

しかし同時に、韓国社会でも構造的な差別や日々の生活での文化的違いに直面することがあり、日本人にも韓国人にもなれない在日コリアンの中途半端さや孤立感を感じることもある。

日本で暮らす姪っ子、甥っ子を含め、4世以降の若い在日コリアンには、以下のように伝えたい。

「民族、祖国、血統、ルーツなどにこだわりすぎず、自分が属する地域社会の一員として、個としてしっかり存在し、個と個の関係を大切に育んで欲しい。身近な人々や地元社会になるべくプラスとなる影響を与えながら、自分が心地よい加減でルーツと向き合い、やりたいことを追って暮らして欲しい。それだけで十分だし、それが生きていく上で最も基本だと思う。」

(ご覧いただき、ありがとうございます。こちらの記事は、2020年8月7月に香樹さんにインタビューさせていただいた記事の補足内容となっています。併せてお読みいただけるととっても嬉しいです:):):)→「癌を患い、仕事量を半分に 手放すことで見えてくるもの 日韓通訳、翻訳、司会業 朴香樹(パク・ヒャンス)さん」)

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