他人に認められたい気持

 他人に認められようと行動することを、私は恥ずかしいことだと感じる。
 だから、ネットや動画投稿サイトで、「認められたい、認められたい」と言っている人たちを見ると、何だかいたたまれない気持になる。
 というのも、私は他人に認められるためにそれをするより、楽しいからする、したいからすることのほうが、純粋で、一等位が高いように思うからである。
 自分が納得できる壺ができるまで割り続ける陶芸家のような人間こそ、私が目指すものであり、私が評価できる人間的態度のように思われるのである。
 しかし、私はどうもここ数ヶ月、文章を書けていない。理由は単純に仕事が忙しいからであるが、もし本当に文章を書くことが好きなら、しんどい時こそ文章を書くはずである。それをしておらず、こんな投稿のためとなって初めて文章が書けるのなら、私は陶芸家ではないのであろうし、文章を書くことが好きなのではなく、認められることが好きなのだと思う。
 私が他人に認められようとすることを恥じるのは、育ちの所為であろうし、子どもの頃の病気の所為でもあろう。私は自分を出さないことによって、周囲の平和に貢献するという処世術を身につけていたのである。
 そんな性質から――ある人から言われたところの――私はロマンチシストになったのである。自らが行動し何かを得ることよりも、私を誰かが変えてほしい、と願うような、白馬の王子様を待つ女性のような人間である。
 私はそれでは駄目だと思い始めている。私は私の思想を手放さなければならない。文章を書くということは、排泄と同じで、自分の手からそれらを手放すことである。私はそれを惜しいと思っていた。自分のものとして、抱えておきたかった。でも、それでは誰にも見つけてもらえないことが、わかったはずなのである。
 それは言い方を変えれば、私がケチだ、ということでもある。言葉を出し惜しみ、人に見せることも惜しむ。すると文章は自然と短くなったものになる。なおのこと伝わらない。
 そして私がケチである理由は、それだけ傷つきたくない、ということである。何かを発信すれば、何かを発表すれば、当然他人の目に晒され、好き勝手言われるのである。それにはもちろん賞賛もあろうが、非難もあるし、とんちんかんなことを言われることもある。そのようなリスクを犯さなければ、認められない。他者によって、私を認識することも、私を定義することもできない。私は傷つくのが怖いのである。
 それでもこのような文章を、他人の目に晒されるようなところに置こうと思ったのは、私のなかの第一歩であろうし、窓の外の世界を――無理だと承知で――変えようと試みる気持を奮い起こそうとする行動なのだと思う。


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