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技巧派否定は無意識に幸福を遠ざけてるかもしれない

私は若い頃、パワーコードをかき鳴らすようなパンクロックにハマり、真っ白いキャンバスに絵具をぶちまけたようなアートを好みました。

逆に、いわゆる“技巧派”とよばれる音楽やアートは、どこかしっくりこずに、自らそれらを遠ざけ、否定する傾向がありました。

それから時間は流れ、40も間近に迫った今、その価値感がひっくり返ってきた感覚が自分の中にあります。


■技巧派の否定=テクニックの無い自分を正当化

その要因のひとつに、『歳をとった』というのが考えられます。
単純ですが、これは結構大きくて、もっと掘下げると、『歳をとって、丸くなって、正直になった』といえます。

“技巧派を遠ざけ、否定した”と書きましたが、
今になって思い返すとそれは、技巧派の否定=テクニックの無い自分を正当化させる手段だったんだと思います。

パンクや抽象的なアートに心奪われていたことは事実ですが、技巧派の否定は不要であったはずです。

好きな音楽やアートを楽しむ。それだけでよかったはずです。

否定は、大小問わずある種の嫉妬心から生まれるケースは少なくないように思います。

技巧派のことを『技自慢』とか『テクを見せびらかしている』と評する人もいますが、表現者の心情を差し置いて、あまりにも勝手な意見だと今では思います。

■テクニックがあるからこそ進める世界がある

好む音楽も相まって、昔はパンクを演奏していましたが、ファンクやソウルミュージック、ジャズに興味が移るにつれて、演奏スタイルもそっちに近づいていきます。

そうすると自ずとテクニックは向上していくのですが、ある日バンドメンバーが、バンド内の1曲を振り返り、

『この曲は、君のベーステクがなければ生まれていなかった』

と私に言いました。

誤解の無いように補足すると、彼の中のテクニックの話であり、一般的なレベルでいえば私のベースは大したことはありません。

しかしながら、パンク一辺倒の時であれば本当に生まれていなかったであろうことは事実で、ある意味、テクニックあってこそ。

テクニックがあったからこそ進めた世界があり、無ければそこには行けなかった。
そう考えると、技巧派を否定し、遠ざけてきた自分をぶん殴りたくなりました。できるとできないじゃ大違いです。

もっと早く気付いていれば、もっと柔軟で寛容であれば、今より早い段階でこの世界に行けたかもしれない。

タラレバなんてナンセンスなので、ここは「今この価値観に気付くことができてよかった。」とでもしておこうと思います。

■成果を残した時よりも、成長や前進を感じた時

この一連の出来事をきっかけに、音楽面ではジャズのコード理論や、メタルのタッピング奏法に挑戦し、絵では写実的な分野にも挑戦しています。

脳科学の世界の一説では『人間は成果を残した時よりも、成長や前進を感じた時に幸福や喜びを感じる』といわれています。

本当にこれには納得で、ライブが成功したり、絵が評価されるよりも、
新しいことや、今まで自分ができなかったことが僅かでもできるようになった時の方が気持ちが豊かになる気がします。

子供の頃は日常的にこの感覚を得ていたのかもしれませんが、大人になってからは、自ら行動しないと得ることはできません。

牛歩ではあるけれど、テクニックを磨くことで、自分の人生も磨かれて豊かになっていく感覚があります。

これは主観的なものであるので、個人の感想の域は出られませんが、改めて否定からは何も生まれないことを実感しました。

否定よりもまずやってみる。そして、難しさの中に少しでも面白みを感じることができれば、それは自分の人生を豊かにするチャンスかもしれません。



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