いざ、ポリアモリーの森へ

はじめに

ポリアモリーって知ってる?
僕はつい先日、たまたまTwitterで知った。

「関与する全てのパートナーの同意を得て、複数のパートナーとの間で親密な関係を持つことまたは持ちたいと願うことを指す(wiki)」らしい。


俺やん。。

かつて恋人に「他の男とヤっておいで」と言って怒られた、僕の恋愛観がおかしいんだと思ってたけど。
どうやら仲間がいるらしい!
よかったーーー!


とは、なれず。

マンガのネタバレを唐突に聞かされたような気分だった。
「マキマさんがラスボスやで」って。
折角いま良い所だったのに。

でも、マキマさんは強くて美しい僕の推しだから。
最後は生姜焼きにされてデンジに食われるなんて信じたくない。
もう少し、自分なりに読み進めたい。

だから一旦スマホを置く。
ポリアモリーの森に入って、本だの人の話だのに影響を受ける前に、今の考えを忘備録として残しておく。


パートナーは何人いてもよくない?

僕は、「暮らしたい」相手と「デートしたい」相手と「セックスしたい」相手はそれぞれ別で良いと思っている。

一緒にいるだけで心地良い相手。
新鮮な刺激を共有できる相手。
肉体の快感を共に追求できる相手。

それら全てをいち人間に求めるのは、あまりに都合の良い話じゃないかと僕は思う。

一人と添い遂げることを美徳とする現代日本の恋愛は、「毎食カレー×数十年」と何が違うんだろう。
でも人間は、和食の気分も中華の気分もローテーションで来る生き物なわけで。
「恋人は一人。それが普通だから」と欲求を抑え込む事が、人の幸せだと僕は思えない。

実際、パートナー以外との関係を望む人が少なからずいるから、コソコソ浮気だの不倫だの、トラブルが後を絶たないんだろう。
それでモメて悲しい結果を生むくらいなら、あるいは欲求を抑えて鬱々と生きるくらいなら。
複数のパートナーを持つ事をハナから認める方が、よほど人は幸せを目指せるんじゃないかと僕は思う。


「所有」への反発

こういう事を言うと「ヤリたいだけちゃうの?」と否定的なニュアンスを込めて言われる。

僕の場合は違う。
そもそもこんな主張をした所で、何人も相手にできる器量は僕にはない。
というか、恋人ひとりも作れない非モテだ。
そのうえ、仲良くなりかけた女性にこの話をしてドン引かれたりしているので、本末転倒である。

それでも主張したいのは、人間による、人間に対する「所有」に反発するためだ。


現代の一般的な恋愛において、「貞操」は重要な約束事だと表面上では言われている。
しかし「貞操」というと聞こえは良いが、実際の所、それは「モノにする/される」事に他ならないと僕は思う。
犬にリードを繋げるような、持ち物に名前を書くような行為が、大人同士の関係構築の場で公然と行われる事に、なぜ違和感を覚えないのか。

もちろん、一人のパートナーで全ての欲を満たせる人にとって、この主張は意味を為さないだろう。
しかし、そうでない人の方が多いのではないか。

浮気裁判や探偵業が。
妻/夫を非難する創作物が。
同性だけの飲み屋で繰り出される不倫の話題が。
なくならないのがその証拠だ。


「おじい・おばあになっても手を繋ぎたい」という願望が理想論的に語られるのは、その難しさを本心で分かっているからに他ならないだろう。
手を繋いで歩く相手を、結婚相手と別に持つことを、どうして考えないのか。

すべての恋の破綻は、いち人間に対して多くを求めすぎた結果ではないのか。
自身の欲を満たすプロセスを他人に丸投げするのは、自身に対する怠慢ではないのか。
パートナー同士で満たせない欲求を、存在ごと否定することが、果たして誠実な関係性といえるのだろうか。

パートナーを一人見つけて安心するのは、もうやめにしないか。


「ヤリたいだけ」の何が悪いの?

話は戻るけど、そもそも。
「ヤリたいだけ」の人間を、否定するに値する道理はあるのだろうか。

ヤリモクの何が悪いのか。
安全措置と合意を基にした、大人同士のセックスならば、誹られるいわれはないんじゃないか。
例え恋人がいたとしてもだ。
君と僕のつながりには、つながった部分以上に二人の自由を縛りあう何の特権も有り得ないのだ(坂口安吾)。

ものを食わねば人は死ぬ。
眠らなくても人は死ぬ。
それほど大きな欲求と、並び語られる性欲が、腫れ物扱いされているのは明らかで。
人は、欲に向き合うことを覚えるべきだ。

ヤリまくれって話じゃない。
欲を押し殺すよりも、うまく付き合う方法を模索する方が、よほど人間らしいって話だ。

そして性欲を満たすプロセスが、ときに人生のパートナーと決めたはずの夫/妻に隠れ、「浮気」「不倫」という形で行われなければならない事が、悲しくないのかという問いでもある。


それでも人は

ここまで僕は、間違った事は述べていないつもりだ。
反論があれば話しあいたい。
言い返せずにウッとなる瞬間、何か実った気がするので僕は好きだ。

しかし頭で理解されても、理屈抜きにしてそれはヤだ、という人が一定数いる事も承知している。

それはきっと、「所有的な関係構築を望む」個人の性質なんだろう。
それはそれで自身の欲求に向き合った結果だろうから、尊重されるべきだ。

しかし、そうではなく。
「一途でいるのが普通だから」という借り物の理由だけで人を所有しようとしているなら、一度考えてみませんかという提案です。

いざ、ポリアモリーの森へ

よーーーし書いた。

過去に書いてきたいくつかの記事で、僕が抱えたモヤモヤが収束する、ひとつの着地点が近いような気がする。

高校生が8歳サバ読んでタコ部屋で1カ月働いた話①
こじらせた僕が出会った言葉
愛する彼女、知らない男とヤってくれ

『人生』第1章の伏線回収って感じだ。ワクワクする。

でも、僕はまだポリアモリストは名乗らない。
下手に名乗って、フェミニズムの足を引っ張るツイフェミみたいになるのは嫌だから。
それに、ここまで僕なりに書いてきたけど、まだ考えの固まらない部分がある。

・人間同士の所有を否定するなら、突き詰めると「恋人」「夫婦」といった肩書きは無意味なはず。なのになぜ、僕は彼女が欲しいのか?
・今後僕に彼女が出来たとして、彼女が他の男とセックスしている光景を目の当たりにしたとき、僕は同じ事を言えるのか?
・ポリアモリーは性質なのか?思い込みなのか?

ここらへんの疑問をリュックに背負って、これより森に入る。
本とか読む。イベントとか行く。
中古の底値で8,500円もしたこの本、これから読む。


引き返して来るかもしれない。遭難するかもしれない。

楽しみ。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?