with障害

新型コロナウイルスが流行りだした頃はコロナが落ち着いたら…、収束したら…そんな風にどこかで終焉を迎えるスタンスだった。

数ヵ月たってwithコロナという認識に変わってきた。

もうコロナを排除するのではなく、共存していく事を考える必要があるのだと。

会議や講義などのオンライン化が進み、色んな会社がサービス内容などの変化を迫られた。

コロナが落ち着いたところで、もう「元通りになる」事はできない。

アフターコロナの世界があったとしても、それは元の世界とは違う新たな世界になっている。

私はこれが病気や障害に似ていると思った。

例えば私。

約6年前にギランバレー症候群になった。

見た目に分かるほどの後遺症はない。

でももう発症前には絶対戻れないし、身体の感覚は全く違う。

たくさん動いても脚が重くなったり痺れたりしない、疲れたからって歩く速さが遅くならない、足場の悪いところだって浮遊感なく歩ける

もうこういった、いわゆる正常な感覚は私にはない。

他人から見たら何も困る事がなさそうに見えたって、やっぱり元には戻らない、戻れないんだと思う。

「もう治ったの?」

こうやって聞かれる事もあったが、私は自分が「治った」と思った事は一度もない。

誤解しないでほしいのは、これは当時治療にあたってくれた医療従事者を責めるようなものでは全くない。

治ってはいないが、良くなったのは確実に医師、看護師、理学療法士、作業療法士のおかげなのだから。

ちょっとしたケガなら治ってよし!かもしれない。

しかし私達患者の多くは、医療機関から離れた後も社会に戻ってからもいつも病気や障害と共存しているのだ。

こうやって文字を打っている私の指には軽いが麻痺は残っている。

言わなければ気づかれないけど。

病気になって私が見える景色はがらっと変わった。

たまに病気になって色んな事を気づけたから良かった

みたいな表現を聞くけど、私はそう思った事は一度もない。

もちろん、色んな考えの人がいてオッケーなわけで自分の病気をどう捉えるかなんて本人が決めるわけで、他人がとやかく言う事ではない。

でも私は病気になって良かったなんて1ミリも思わない。

なんだか病気になると、それを乗り越えて美しい感動エピソードを求められがちなんだけど、そんなキレイな物ばかりではないわけで・・・笑

他人のちょっとした一言や態度に傷つくこともある

行きたかった予定があったのに、朝どうしても身体が動かなくてキャンセルしないといけないあの気持ちに当てはまる言葉は未だに見つからない。

(ただ残念とか悔しいではないんだよね・・・)

翌日の身体の心配をして動かないといけないもどかしさ

病気にならなければ起きなかった衝突

いつまた再発するかもしれない不安

もっともっとたくさんの事を抱えて生きている。

しかしwith障害っていうのは100%嫌な事だけじゃないのが不思議なもので、私はここ数年で多くの人との出会いがあったのだけどその9割くらいはきっと病気にならなければ出会わなかった人たちだ。

それでも変わってしまった身体や環境はどうにかして元に戻したくなる。

そんな葛藤はもう何百回もしてきた。

でも無理なのだ。

排除する姿勢じゃなくて、共に。with。

withにのスタンスになれた時に一気に世界は広がるような気がする。

この置かれた環境でどう自分を咲かせるか。

身体は思うように動かない、痺れはとれない。

だったら身体は人に動かしてもらってもいい。

でも自分の生き方だけは自分で決める。

身体はブレブレでもいいけど(良くはないか・・笑)ここだけは他人に預けちゃだめでブレてはだめだと私は思っている。

しかし実はこれはとても覚悟がいる事だ。

なかなか覚悟をすることも、病気で変わった事を受け入れるのは難しい。

それは医療従事者が思うよりもはるかに難しい事。

何年も1人の患者さんに関わるわけではない限り、自分と関わっている間に受容できて覚悟をする事はかなり厳しいと思ってもいいと個人的には感じる。

しかしコロナにしても病気にしても支配されたら、自分の人生はどうなる?

支配されずに、withの姿勢でいること。

ちゃんと言葉にした事はなかったけど、私はこのスタンスを大事にしている。

多様性という言葉が当たり前になってきた現代はいろんなものとwithの姿勢でいる事が求められるんじゃないかなーなんて思ったりしてます。

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