神々の山嶺の麓へ
「……28,29,30。はぁはぁはぁ……」
こんなに、身体が重いなんて。
息を吸っても、吸っても、身体に入っていく感じがしない。
一歩ずつ足を動かしながら、数を数える。
30歩までかぞえて、止まり、呼吸する。
それで、ようやく10mくらい、前進する。
横には、友達のシェルパのマハビールさんがいる。
私のペースに合わせて、歩いてくれている。
ここまで来れたのも、彼がいてくれたおかげだ。
2度目のネパール。
1度目は、ブッダ生誕の地をめぐるツアーでまわった。その時に、現地ガイドで付いてくれたのが、マハビールさんだった。
いろいろ話をしているうちに、同じ年というのがわかり、仲良くなった。
昔は、エベレスト登頂のサポートまでしていたそうで、今は、ネパール国内のツアー会社を経営している。信心深い仏教徒で、すべての生き物を大事にしているというのも、尊敬できた。
その時に、私が人生で一番行ってみたい場所、エベレストベースキャンプまでのガイドをお願いし、計画したのは2021年3月。
ところが、行く直前、コロナ禍によって、ネパール入国ができなくなり、中止になってしまった。
そして、2023年3月。
エベレスト街道を歩いて、今、5000mの場所にいる。
360度、険しい山々の白い頂が連なる、日本では見られない風景に、足を止める度に見惚れてしまう。
街道は、車が入れないようになっているので、荷物を運ぶのは、ヤクか、人。
ポーターは、自分の身体の3倍はある大きさの物を背中に載せている。
よく、あの重さを背負って、歩けるなー
自分の身体すら、重たく感じているのに
ときどき、ヘリが爆音を立てて、空を飛ぶ。
「高山病になった人を運んでいるんだ」
道中、いろんな国の、たくさんの観光客とすれ違った。
親子だったり、カップルだったり、友達同士だったり。
圧倒的な山々の美しさを見ながら歩ける、ここはまさに、観光地。
しかし、過酷な環境であることをあまり意識せず、ガイドを付けていない人もいて、そういう人たちがペース配分を誤り、高山病にかかって、ヘリで運ばれているらしい。
ここまで、体調に問題なく来れたのも、マハビールさんの細かいコントロールのおかげだ。
ペース配分だけでなく、飲み物から食べ物、睡眠の取り方まで。
特に、夜は-20℃になる。
もし睡眠が取れないと、高山病の危険性が高まるため、どうやって眠るかが重要になる。
山小屋の暖房は、食堂のところのみ。
部屋の造りは、べニヤ板程度の壁で、外とあまり変わらない。
ベッドでは、極寒用のシェラフに、毛布をかけて、さらに湯たんぽを抱えて寝る。
最初は、どうにも寒くて、夜中に何度も目が覚めてしまったが、そのうち長い距離を歩いている疲れで、しっかり眠れるようになってきた。
おかげで、高山病特有の頭痛が起きずにすんでいる。
ただ、途中で雪がちらつく天候に見舞われ、あまりの寒さに風邪をひき、食欲が低下。
マハビールさんがこういう時のためにと、村で買っておいてくれたりんごと、甘い紅茶だけを口に入れて過ごした。
いよいよ、エベレストのベースキャンプまで歩くという朝、食堂が騒がしい。
マヒバールさんが、他のガイドとやりとりしている。
どうも、若いガイドのツアー客に何かがあったようだ。
「どうしたんですか?」
「昨日、ビールをかなり飲んで寝たお客さんが、今朝、亡くなっていたらしい」
観光地だからと、気が緩むと、こんな結果になるのか……
「ガイドが若いから、経験少ないし、お酒を止めなかったみたい。亡くなったことが相当ショックだったみたいで、いろいろ話を聞いてあげてたんだよ」
ベテランガイドのマハビールさんは、どこでも顔が知れていて、山小屋のスタッフやガイドからの信頼が厚い様子が伝わってきていたが、この時は、自分たちがプロのガイドと一緒に歩いている安心感を、心底、感じた。
クライマックスのエベレストベースキャンプまでの山道は、氷河を眺めながら歩いていく。
水色の氷の塊が、少しずつ動いていると聞いて、ほんとうに河なんだな、と自然の力に圧倒された。
そして、スタート地点のルクラから山と谷を10日間歩き続け、ようやく、ベースキャンプのある5364mに到着。
山の麓に、テント場が見える。
登山隊は、まだシーズンが始まってないので、テントはそれほど張られていない。
このテント場で、高所順応するために、2か月ほど過ごしながら、天候を見てアタックする。
まず氷河を超えるところが難所で、クレバスに落ちないようにルートを作る専門のシェルパがいるらしい。
目の前に広がる氷の河が、まるで別の次元への入口に見えた。
ここから、8848mのエベレスト登頂に向けて、生死をかけて登山するのか……
いろんな人の、エベレスト登頂のストーリーを読んできた。
本格的に登山をやる人なら、一度は登ってみたい、と思わせる場所。
私は、登頂したい、というよりも、どんな気持ちでここからスタートするのか、その気持ちに近づきたくて、神々の山嶺の麓を見に来た。
呼吸もままならず、生き物が生息する場所ではない、過酷な環境。
今、ベースキャンプに立ってみて、エベレスト登頂を目指す人のみならず、月や火星に行こうとしている人の意味がわからなくなった。
だって、酸素、大事。
昔、人力だけで、さまざまな物を造ってきた環境が、ここにはまだある。
能力に限界があるからこそ、支配ではなく、自然をリスペクトし共存している。
しかし、人は力を拡張し、不可能を可能にしてきた結果、環境を破壊し、共存どころか、今でも戦争は続いている。
長い歴史の中で、技術は進歩しても、人間そのものは進化していないように思う。
神様には、近づかなくていい。
だって、人間だもの。
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