狩人主夫の風景(ランドスケープ)と、純粋な地球の景観
「昔、体調を崩したときにね」
お友だちが、身体に巡る循環・輪の話をしてくれたことがある。梅雨の晴れ間の田園風景をドライブしながらのことだった。
「身体がしんどくて、自分にはどんな栄養が足りないかめっちゃ調べてたの。そしたら、身体に入った栄養分は、輪っかみたいに循環していて、それぞれがそれぞれの器官に順番に行くから、ひとつの栄養を沢山摂るんじゃなくて、沢山の種類を補充して、循環の流れを止めないようにさせると良いんだって。」
流れる山々の景色を見ながら「身体も、地球の循環も一緒で、この風景は輪っか状の流れだな。」と思った。
*都会の風景(ランドスケープ)*
自然の、循環の輪っかから離れるほど、暮らしは生命ではなくお金の循環になる。その景色はコンクリート道路や、電車やビル、集合住宅となり、まるで箱庭のような風景(ランドスケープ)になる。
*農耕文化の風景(ランドスケープ)*
一方で、畑や田んぼの農耕文化の風景といったら、人が自然と隣合わせに暮らすのに地面の土を、生命全体の循環の一部を、広げて整えて切り取った景色だ。
*生命を獲って(採って)くる狩人の風景*
そして狩人は、相手側の循環の一切を変えようとはしない。獲ることは純粋な生命の循環に触れることだ。
多様な生命の循環の中へ、身ひとつでダイレクトに干渉していく。
この生命の惑星には、誰かが生命をいただくと、どちらかのいのちは途絶え、同時に別のもう一方のいのちは
また生き存えていく。そんな循環が、やがて地球の純粋な景観になっていく。
そんな狩人には、知性がある。
*『ただ狩るだけの人』は狩人とは言えない*
狩人は、どのくらい生命を頂ければどのくらい足りるのか知っている。
生命に干渉するとき、どのくらい獲ると生態系にどのくらい干渉が及ぶのか、獲る(採る)または獲らない(採らない)の選択が必ずある。
どの生命がどのように命を産み育て子孫を残しているか。個体の特性の知識、寿命と繁殖力、
繁殖期までの成長期間、生存率や生命力、彼らの棲み家の危険性(川や海山の状況)、その生命の利用方法(食用、薬用その他諸々)、部位ごと季節ごとの調理方法、保存方法(燻製、発酵等等)、、、、、、
**うちの主夫**
うちの主夫は、食べものを獲って夕飯を作ることが多い。いただく生命の種族の保存も考えて、獲ったものを無闇には人に配ったりしない。エサにする虫も、小さい個体は絶対使わない。
「これから大きくなるのに小さいうちから獲ってると居なくなっちゃうからね、、」と。(「かわいそうだし、」と)
日中、川や山で食材を見つけては帰ってきて台所へ向かう。台所から「ごめんなぁ。」って声が聞こえる。
手に包丁を持つ上の戸棚には〈生命をいただきます〉って習字で書いた半紙が貼ってある。
獲る場所はもちろん許可的に当然だけど、
獲っても大丈夫な種類、数、大きさ、季節も含めて考えて獲ってくるまたは逃がす、の選択。
食べた後だって、いつでも地球を観察している。
去年よくいただいた種族に変わりはないか。天気はどうか。南伊豆で屍肉を食べる鳥より、ノスリ的な『生きたものを捕食する鳥』が多くなったと4年前から言ってたけど言われてみれば本当にそうだと分かったのは最近のこと。
生態系は、実に目に見える形でゆっくりとバランスを変えている。ここ最近で猪や鹿が罠にかかる数が変わり始めたのもこの頃からだったんじゃないかな。
森や海の違和感。
主夫狩人はその変化を見逃さない。
*Ayurvedaにはスロータスという概念がある*
最初に友人も言っていた、身体を通る管・身体の循環の輪のことを、古代インドの伝承医学アーユルヴェーダでは『スロータス』という。
毒素とか排出とか、聞くと嫌な悪いイメージが強いようだけど、それは決してゴミなどではない。
【その管を通って出てくるもの(排泄物)は、純粋な美しい生命と感謝から来ているものだからだ】
Ayurvedaには、人間の身体は小宇宙だという考えがある。
知性のある狩人の存在は、大宇宙の純粋な輪を整えるのでなく調える。
狩人主夫のいる風景(ランドスケープ)は、生命の惑星・地球上で最も純粋な景色なのかも知れない。
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