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書きたいこと。

ぼくは鬱になってしまって、それでもなんとか生き延びているのは、多分読書と、友人のおかげである。友人にはSNSの友人ももちろん含まれている。
僕は孤独であることを愛している。
と、同時に孤独を空気のような存在のように感じてしまうと、僕って別にいなくても一緒だよなと思ってしまう。そして残酷な方にそれは事実なのだ。ひとが一人くらいいなくなっても社会は何も影響がない。まあいたところで社会の歯車の一つに過ぎないのですが。
誰にも気付かれずフェードアウトできればどんなに良いか、とか考え始めるとあまりよくない。
ただ、幸せに穏やかに暮らしたいだけなのである。ぼくはそれ以上のものを望まない。

いつか、この生きにくさ、というものを文章にまとめてみたいと思う。誰かの役にたてるのならば。
ただ、まだ上手く書けないのだ。

今のところ文章の中では道化でありたいという気持ちが勝ってしまう。シャイなのだ。
普通に生きているだけなのに、うまくいかない。失敗する、わけわからんトラブルに巻き込まれる。
だから今のところは自分の事をただ、楽しく書いていたいというのが現状である。お役立ち本みたいなものを書いてみたいとは思っているのだが、自分を差し出すっていうのでいまは十分である。
そして、他の人が書いた本をありがたく読ませて頂いている。この本に救われた!とかそういう次元ではなく、僕が読んだ全ての本に救われているのだ。読書という行為が僕を救うのだ。

あと、まだ僕が手を出していない分野は書評を書くことである。書評というと、少し専門性が高くなってしまうので、もう少しハードルを下げて言うならば感想文である。
あの、作文、とりわけ、感想文というのは僕の中で苦痛な宿題の一つであった。
正解が分からなかったからだ。
自分なりには面白く書けたつもりでも、他の人のと比べると、なんか変なのであった。今思えばそれをさ先生が認めてくれれば、自信にも繋がったのかもしれない。でもそれは全く期待できなかった。{小学校の教師との確執は、文学フリマで販売した私の拙作であるZINEに書いている)
なんというか今の僕ならさ、そういうへんてこりんな作文を書いてきた子どもの可能性に気づいてあげられるかもしれない。でも僕は、なんか下手くそな作文で、だめなんだと思わされたから、距離を置くようになった。あるいは、本当にひどい代物だったのかもしれないが、どうなんでしょうね、もう何を書いたかあまり覚えていないのでなんとも言えないのですが、すっかり自信を無くしてしまったことはよくよく覚えているわけです。なんだか愚痴っぽくなりそうなので、この辺でやめておきます。
ぼくが小学校の教師になれば良いのだろうか。
幸い免許は持っている。ただ、子供たちの奇声に耐えられそうにない。

文学フリマを通して、意外とおもろいねと言ってもらえたことは僕にとってとても大きな意味を持っているのだ。自信にもなったと思う。まあまあ売れたし。
noteのこの場所を借りて、少しずつ本のことを書きたいと思っている。
第一回をどうするか、迷う。
この数ヶ月で、面白いと思った本は、
小川和『日常的な延命』
カフカ『城」
ディラード『本を書く』
秋峰善『夏葉社日記』
だろうか。今読んでいる向坂くじら『夫婦間における愛の適温』も面白い。これは夫婦によんでもらいたい。そして僕はこんな夫婦に憧れる。

本の話はまあそのうち。
へんてこりんな読書案内を作ってみても面白いかもしれない。
ディラードの『本を書く』なら、ドMなあなたにささる!みたいなキャッチコピーで書き始めるだろう。さんざん罵倒され、その先にみえるのはあまりにも美しい風景だ。知らんけど。


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