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眠れない人のために

眠れない時は、潔く諦めてしまうのが良い。それがこの数年で僕が得た教訓である。
布団に潜り込んでも、何もできないのであれば、こうして何かを書いている方が落ち着いていられるのである。別になんでも良い。動いてみる。

『カフカの日記』にも、シオラン『生誕の災厄』にも不眠というワードがたびたび登場するが、カフカも仕事を終え、眠れない時間に原稿を書いていたのだ。ならば僕もそうしてみようと思う。

カップラーメンを啜りながらこんなことをしているのだから、おそらく不健康の極みであろう。ただ、頭は冴えている、あるいは冴えていると錯覚している。
村上春樹は、早朝に原稿を書くことで知られているが、デビュー作『風の歌を聴け』は深夜の静寂の中から生まれた、悲痛な叫びである。

僕は、不眠を正当化しようと必死なのだ。
早寝早起きが唯一の取り柄であった僕は、それすら奪われてしまった。
失ったもの。健康な肉体と、正確な体内時計。
それもぜんぶうつのせいだ。
だからといって、悲観していても仕方がないと思った。
それならば半ばヤケクソになってでも、この時間を愛したいと思うようになっている。

きっと眠れずに苦しんでいる人たちというのはたくさんいるのだろう。
そんなときは思い切って布団から飛び出してみて、深夜と戯れてみると良い。

不道徳だ。

深夜にものを書くという行為は、危険も孕んでいる。一生懸命書き上げたものが、朝の光を浴びることで、とんでもなく陳腐なものに見えてしまう可能性がある。それが僕の文章だ。
ゼルダの伝説で夜になると登場する、骨のゾンビのようなモンスター。そんな感じだ。それでもその光に耐えうる文章というのも必ず存在しうるのだと思う。それがカフカであり、シオランであり、村上春樹なのだ。

僕は、とんでもない巨匠たちのの名前を列挙している。それでもそこに限りなく近づくことはできなくても、少なくとも今いる位置から少しずつ近づいていくことは可能だと思っている。

僕は、文章を書いて、一体何を伝えようとしているのだろうか。
ただ一つ言えるのは、絶望に抗おうとしている、ということだ。

完璧な文章も完璧な絶望も存在しない、と村上春樹は言ってくれた。
完璧な絶望がないのであれば、なんとかなるのではないかと思うのである。

夢を見た。
僕は、一面真っ白のだだっ広い空間に一人である。
そして、真っ白の三角柱だの立方体だのを端から端まで運んでいるのだ。
その繰り返し。
人生そのものじゃないかと思った。

またある時は、僕はクラスの劣等生であった。
自分一人だけが授業に全くついていけないのだ。
全くついていけないとわかっている自分がいるということに驚いた。
誰かが指摘してくれるわけではないのだ。
誰も僕のことを気にかけてくれる人はいなかった。みんな真剣に授業を聞き、ノートをとっていた。僕は、何もできずに呆然としていた。
でも、わからないってちゃんと自覚しているところが自分らしくて良いなと思った。僕は大体のことはわからないのだ。だから何かを書こうとしているのかもしれない。

人生を理解してしまったら、もう楽しみは無くなってしまうだろう。
そして、理解の有無に関わらず、僕たちのゴールは死なのである。

ああ、なんだか難しかったな、って終わるくらいがちょうど良いと思った。


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