大学を休学するけど、何するか決まらない私の2021年の目標


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昨年12月くらいから温めていた目標です。

違和感に敏感になる

クリティカルシンキング。政治に関心のある私は比較的できる方だと思っていた。常識的、一般的に言われていることに対して、本当にそうなのか?と懐疑的に見る。
しかし、起業家の方、新規事業のアイデア、ソーシャルビジネスのmissionといった話をきいていると、政治的のようなマクロな視点でなく、
もっと身近で、生活の延長線上で、かつ哲学的な視点でのクリティカルシンキングをこの人たちはしている、と感じることが多くなった。
と、同時に、あ、私もその視点それ共感。と思うことも多々あった。

この人たちと私の違いは何か。私も共感したのに、なぜこの人たちはいち早くそれを社会の人々が認知できる形にできたのか。

おそらく、自分自身の違和感を見過ごさないかどうかだと思う。
これまで、自分自身の違和感を見過ごさないかどうか、というのはマジョリティの意見に流されないことだと思っていた。
しかし、もっと大事なのは、ある業界での著名人や自身が尊敬している人の言葉にも流されないことだと思う。この人たちの言葉は、私に新しい知見をもたらしてくれるし、飛び抜けた意見もある。

マジョリティの意見を批判的に見るときに、そのエビデンスを求めて、より専門的に物事を見れる(と私が思う)人の意見を見聞しようとする。もしくは、決して社会的に名だたる人でなくても、自分自身が尊敬しいている上司や師匠の言葉を借りようとする。
それで、物事を批判的・本質的に見た気持ちになる。

しかし、それはただの酔いだ。
別に、その酔いをすることを完全否定するわけではない。

自己が他者を介して形成されていくように、尊敬する人・憧れの人の意見を信じるというのは良薬になるとも考えている。私はよりなりたい私にアップデートされていく。
しかし、アップデートされるということは、それまでの”私”を常に否定することと同義でもある。幼少期から形成されてきた"私"は常に否定されつづける状態だ。
何が言いいたかと言うと、ここでは自己肯定感の低下、とかではい。私をアップデートするということは、ある日ある時の”私”がこの世界にいたことを見えなくしてしまうということ。

そうすると、何が起きるか?
ある日ある時の”私”が抱えたいて問題を解決してくれる人がいなくなる。
私の困りごとは誰かの困りごとなのに。

「もしあなたがあなた自身の考えを表現せず、あなたの核からの声に耳を傾けないとすると、それは自分自身を裏切っているということだ。さらに、全体に対して果たしうる貢献ができないという意味で、あなたのコミュニティも裏切っていることになる。自分自身に中心を置くという勇気が必要で、この勇気がないと私たちは心が空っぽのように感じる。自分の中にある空っぽの気持ちが、無関心へ、さらには臆病へとつながる。だから、私たちはいつも自分の中心に対してコミットメントを持たなければいけないのだ。それ以外のコミットメントは究極的にはどれも本物、オーセンティックではない」

May, R. (1994). The courage to create. WW Norton & Company. = 井上 英介(2019). Harvard Business Review. コレクティブ・インパクト実践論(https://www.dhbr.net/articles/-/5677)

 この世に一般的に出現している理論や考え方というのは、あくまでマジョリティが賛同したもの、もしくは、言語化することができる研究者が定義づけしたものである。
しかしそれらの構成物を分解していくと、結局それは経験という粒子であり、たまたま誰かによって見えやすい形に形成されたにすぎない。

「学ぶ」とは、それらの概念を自分にインストール、つまり、自分の経験の粒をそれに同化する形にすることである。そうやって、”私”はアップデートされていく。この「学ぶ=アップデート」とすごく納得感や達成感があると感じる。酔いである。
しかし、それが極端になると、ロー・メイの言う「心が空っぽの私」になっていく。
全員がそれをし始めると、「心が空っぽの私」が大量生産され、世界は無機質になってくると思う。

だから、そうではなくて。
既存の枠組みに当てはまらず、行き場を失っている私の違和感にしっかり目を向けてあげてたい。無理やり誰かの理論・考え・概念に同化させるのではなく、拾い上げ、丁寧に丁寧に、他の粒子と構成させながら、自分の手で見える形にしていきたいと思った。


二つ目に関してはまた気が向いたら書きます。

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