学問とイデオロギー、権威と正しさ

 学問とは知識とその探究方法の体系である。学問の意義は個人的な知的好奇心の満足にとどまらず、人類共通の叡智の獲得という点も存在する。

学問において「正しさ」は最重要であるが、「正しさ」が何であるかは学問領域によって幾つか異なるものが考えられる。例えば、数学的な正しさは前提条件が同じであれば万人にとって正しいものであると言える。一方で、法学における正しさとは論理的正しさと道徳的正しさ、多くの人の合意や権威付けと複合的概念になる。哲学ならば結局自分が納得できるものが正しいということになるだろうか。

このように「正しい」という概念は一義でない。ここでは、数理的正しさ、自然科学的正しさ、論理的正しさ、制度的正しさ、感情的正しささまざま考えられるが、まずはこれらとイデオロギーについて語って行こうと思う。

前者になればなるほどイデオロギーというものは薄い。数理的正しさにはイデオロギーが介在する余地はほとんど無いだろう。(証明は美しくなければならない、という考えはイデオロギー的だが、証明の正しさには影響しない。)

ただし、特定の条件下において数理的、自然学的正しさがイデオロギーに歪められるということは起こりうる。ガリレオの寓話は有名だし(当時の教会は基本的にこの対立には中立であったとされるためあえて寓話とする。)、20世紀に入ってからの旧ソ連におけるルイセンコ主義などがその最たる例であろう。ちなみに、ルイセンコ論争の話は、(被害が甚大すぎて、あまり笑うのもどうかと思うが)非常に面白い話なので興味があれば是非調べてみてほしい。

論理的正しさや制度的正しさが問題となる場合は、その根幹に必ずと言って良いほどイデオロギーがある。共産主義の理論が正しいと信じる人間と資本主義が正しいと信じる人間がいるとして、彼らの信ずる理論が同程度に説得的であるならば最後にはイデオロギーがその正しさを結論づけるのである。

イデオロギーが正しさの根拠になること自体に問題はない。誰かが物事を正しいと主張する場合に、その正しさはどういった意味での正しさか、正しさを支えるイデオロギーは何かに着目することが大事なのである。

さて、説教臭くなってしまったので、ここからは私が常々思う不満、学問における「権威」と正しさについて少しだけ書こうと思う。ちなみに私は文系の大学院生だが、高校時代は自然科学部でそこそこ頑張ってそれなりに結果を出していたので少しは理系的な学問に対しても理解がある方ではあると思っている。それでも、理系学問についてはもう5年以上離れているから、間違ったところがあったとしても許してほしい。

さて、文系の学問においては「権威」というものは非常に重要な要素だ。そして「権威」は時にアカデミアにおける政治と結びつくからタチが悪い。

これが数学や物理学の世界であれば、「権威」は自然科学的正しさには最終的には関わらないから、これらの学問は権威主義に対する耐性が強いと言えるだろう。

私のやっている法学という学問には、〜法の神様や大家と呼ばれるような立派な研究者がいらっしゃって、そのような人たちの説が通説を形成していると言っても過言ではない。こう言った人たちを中心に学派というものが形成されていくのである。(そして学派は時に一定の学門上のイデオロギーとも結びつく。)

まあ、文系学問は往々にして文化的な積み重ねの中で生まれるのだから、こういった伝統と権威を重視するということはある程度理解できる。

しかしこう言った権威主義的なあり方は誰が書いた論文かを重視しがちな構造に導いてしまう。本質的に重要な要素を時に見落とさせる結果になる可能性や、学問のあり方がより硬直的なものになる危険性も孕んでいる。

誰が書いたかは重要な要素であるが、大事なのは研究の質である。そのことを心に留めておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?