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図書館リサイクル本/辻嘉一『懐石傅書』/調度品としての本

地元の図書館からの放出本、古くなって登録抹消されたいわゆるリサイクル資料です。これ処分するかあ〜!で、もらってきました。

辻留・辻嘉一の『懐石傅書』全7巻から「八寸・口取」。講談社がボックス・セットで大々的に売り込んだのが大阪万博の前年1969年。じつは我が家にもありました。が、母が読んでいたのを見た記憶なし。たぶん父が飾り本として買ったのです。経済の高度成長期、そのプライドをモノで証し、所有するという意味での中流家庭の常備品、百科事典ほか全集の類いがみなそう。調度品としての本は読まない。読んではダメ。

当世風のレシピ本ではなくて文字通りの傅書、料理の風姿花伝です。博識な料理家であっただけに、和歌、短歌の引用に全く無理がなく、料理の趣きの説明に上品な香を添える。その一方で合理的な思考を巡らす人であることが、初学者手ほどきのロジックでわかります。

高級料亭でなくとも、先付けや八寸の皿・角盆に複数の品を盛るとき、ある程度に一般化した配置のルール(隙間を存分に自己主張させるためのモノの設え)があるだろうことは、客目線でも覚えがある。その理を明かした図解付き2ページには思わずうなってしまいました。

東山魁夷がよせた序文が、民族主義からの浅い文明批判(たぶん万博開催を意識して)になっているところも興味深い。水の波紋で有名な日本画家、福田平八郎が全巻の装画を。

調度品としての本 ... そういう本の自堕落な居住まいを、しかし、「積ん読」よりは積極的な含みがある最近の造語でantilibraryと呼ぶそうで。知識の百科全書主義から人間ではなく本のモノ性を開放する、くらいの意味。ウンベルト・エーコの書棚がそうだろうし、大山エンリコイサムの本のタイトル『アゲインスト・リテラシー』の意図と彼の絵も。石牟礼道子が本一冊を読み通さなかった、というのもたぶん。ついつい放出本を図書館からわたしが持ち帰ってしまう、その理由でもあります。

で、明日朝の雑紙・古本回収へ。