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夏休み恐怖症

私は、夏休みが怖かった。大嫌いだった。なくてよかった、そんなもの。

坂口恭平さんの躁鬱大学を読んで、自分がなんで夏休み恐怖症だったのかわかってすっきりしたので書いておく。

※この話はフィクションです

小学生の時から、夏休みはすこし苦手だった。なんでかっていうと、なつやすみのしゅくだい があるから。あの量と内容って、コツコツやらないと終わらないじゃん。(相当要領いい人、自分の力でやるっていうルールを無視できる人は別だけど)

私は計画を立てた。そしてそれはいつも倒れた。始まりに頑張り、途中から時間がワープ、終盤に家族の応援のなか死に物狂い。

このパターンが嫌いだった。それでも、繰り返す。

だんだん、計画や目標を立てることすら嫌いになった。(どーーーーせ守れないのに、立ててどうする?)

中学生のとき、私の自信は真面目さと成績と絵だけだった。

正しく言うと、授業態度の真面目さ(寝ない、質問する)と、テストの点数。

これは何に支えられてたかと言えば、授業中は他者の目があること、テストの点数で一番になるという快感→「常に評価の基準が他人」

これが夏休みになると、他者の目がなくなるため、真面目モードは維持できなくなる。生活リズムは昼夜逆転、夕方から朝方までネットサーフィンあるいはネットで絵を描いていた。夏休み後に皆で張り出して見合う「夏休みの絵」だけは描けていた→「リアクションのない行為は一切することができません」

高校生までは、何とか始業式には間に合わせていたと思う。(どうだったかな)

それでも、私のなかの「夏休みをちゃんと過ごすことへの苦手意識」は爆発寸前までに膨らんでいった。「宿題やらない」って決めちゃえたら、青春時代をどんなにすっきり過ごせただろう、と今になると思う。

高校3年の夏休み前、もちろん受験への不安とかそんなんもあったけど、私の気分は憂鬱で、それは「また夏休みをちゃんと過ごせないんじゃないか」という恐怖からだった。

夏休み中は休める喜びよりも「やるべきことがちゃんとできないのではないか」という恐怖と宿題をやらなきゃという焦燥感のほうが大きかった。後半は「やるべきことができない自分」への自己嫌悪で憂鬱だった。

休みが明けると、「ちゃんと過ごせなかった」ことへの後悔とそれをできているクラスメイトへの劣等感で落ち込んだ。

地獄の夏休み。それは、終わるたびに私の自尊心を削っていった。

短大の夏休みになるともう、夏休みへの恐怖はピークに達した。

なぜなら、高校より夏休みが長いのだ。そして私の短大は課題が多かった。

「夏休みいらない。絶対むり。なんで宿題出すの・・・。」もう泣きたい気分だった。たしか泣いていた。夏休みが来るのが怖くて。

短大1年の終わり、私は哲学の単位を落とした。毎日学校には通い、哲学の講義は一番前で聴き、講義の後には質問に行き、熱心にわかりやすいノートをとっていたにもかかわらず。先生も「なんだこの生徒?」な気分だったろう。理由は単純で、レポートが期限までに出せなかったのだ。(ADHDのせいもある)

(ちなみに、2年次で再履修して、見かねた先生がテストもとり入れて下さり、なんとか単位が取れた。)

看護学校の夏休みも地獄だった。宿題が多かったし、ほとんどレポートとか事前学習といわれる写経のようなものばかりだったから。

この頃になると、私は夏休みを呪っていた。

始業式の朝、教務室に行って「先生、だめでした。事前学習、終わってません。というか手が付けられてません。」と泣いて謝った。本当に申し訳ないと思っていたのだ。隣でクラスメイトに「泣くぐらいならやってくればいいのにね~」とひそひそ話されても『いや、本当にそうだよね。返す言葉もございません。』とまっすぐ受け取ってしまうくらいには。

これが不思議なことに、夏休みが終わって人の目があると、呪いが解けたみたいにどんどん課題がこなせるのである。先生は「できるんじゃーん」と言っていたけど、夏休み中はできないのである。その課題が長期休みにコツコツと片づけるものである限り。(そんなわけで、死に物狂いで、夏休みが始まってしまう前に終わらせられるものは片づけていた。直前まで課題の内容を教えてくれない先生には怒りが湧いた)

これも、なんでかっていうと、学校が始まれば人の目があるから。


もし、過去に戻れるなら。

私は私に言ってやりたい。

「それ、無理だから。諦めちゃえ。そして夏を愉しめ。宿題やらなくても死なんし、憂鬱に過ごした夏は二度と返ってこない。」(たぶんこれ、お姉ちゃんが言ってくれた気もする。そんなに悩むなら放棄すれば?って。)

あるいは、休み中、過去の私に張り付いて「他人の目」になってやりたい。(同一人物が同じ時間に同時に存在できるのか、とか、未来の自分の目は「他人の目」になりえるか、とかは無視することにする)


でも、過去には戻れないので。

小学生のわたし、中高生のわたし、短大生のわたし、専門学生のわたし、

よく、

夏休みを乗り越えてきたね。

よく、放り出さないで 18年分の「なつやすみのしゅくだい」に向き合ったね。たとえ負ける戦でも。期限に間に合わせることができない自分と分かっていても。

おかげで、助産師の国家資格が取れたよ。(夏休みの宿題を放棄してもとれたのかもしれない。とくに前半10年分くらいは。とらない人生もあり)

安心して。いまの私は長い長い夏休みにいるよ。そこには宿題はないよ。


夏休みへの恐怖。それは、自由になるとうまく自分をコントロールできない自分へのおそれ、ともいえるかもしれない。

つまり、自由への恐怖。

長い長い夏休みに居る今、自由をどう生かしていくかは私の大きなテーマだ。

それはそのまま、与えられた時間、人生をどういかしていくかに他ならない。

それを考える時、自分が「躁鬱人」であることを踏まえて物事を選択し、生活をデザインすることは、かなり有効そうである。


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