鵜呑みの快感
ごはんはよく噛んで食べましょう。
本や情報は批判的思考をもって読みましょう。
そういうのが大事なのはわかってる、
分かってるんだけど、鵜呑みの快感っていうのもあるよね。
もともと、何かを噛まずに飲み込むのは得意だった。
お母さんが洗面台に置いていた、鉄のサプリメント。(へむてつ、と呼んでいた。)
外側にチョコレートがコーティングされていて、レモンを太らせたようなかたち。
なんか美味しくて、小さいときは意味もなくザラザラと飲み込んでいた。
それで鍛えられた私は、わりと大粒の薬でも水なしで飲める、という特技を持っている。(食道に薬剤が張り付くと潰瘍をつくることがあるよ!良い子はそんなところで頑張らないで、水といっしょに飲もう)
ヘム鉄が美味しかったってだけではなく、そのまま飲み込むこと自体にある種の気持ちよさがあったのではないか、と思う。
いまはサプリメントや薬を飲む機会はほとんどないので、物理的な鵜呑みの快感からは離れている。
が、やはり自分は鵜呑みがしたいのだなぁと感じるシーンがある。
例えば、それは映画。
観ているじかんは、完全にその世界に陶酔したいのだ。入り込みたいわけ。
なのに、それができない突っ込みどころがあると、なんとも不完全燃焼感が残る。
たとえば
天気の子、という映画をみた。監督は観客の感情の盛り上がりなどを意識して作っているという。これは浸らせてくれそう!
なのに。
肝心なシーンで気が散ってしまった。
雲の上に行ったヒロインの体が水のようになってしまい、大事な指輪がすり抜けていく、というシーン。ああ!落ちてしまう!
ってなりたいのに。
私の頭の中は、
「なんで服はすり抜けて落ちていかない?指輪は金属で重いけど、服は軽いから?表面積広いから、上昇気流でなんかなってるのかな?服がすり抜けたら、お色気シーンになってしまうからか?」
などという、めんどくさい小学生みたいな思いでいっぱいだった。
悔しい。
読書も、批判的思考で読むことが大事なのは分かっているつもりだが、著者に感心したり、その世界観に圧倒されたりしたいのである。
自分の専門分野に熱狂的な愛をもっている人が、それについて語るような本が好きである。
(例えば、外尾悦郎 ガウディの伝言
ロビン・ウォール・キマラー 苔の自然誌
中村祥二 調香師の手帖
など)
なのに。
クロード・レヴィ=ストロース 月の裏側 日本文化への視角
という本で、著者が日本文化への愛や考えを展開しているのだが、親切な注で、そのいくつかの部分が否定されているのである。
私のような鵜呑み人間は、むしろこの注釈に感謝すべきなのだ。でないと、ドヤ顔で昔の人が言ったからといって、間違ったことを語ってしまうだろうから。
でも、
その注でブレーキがかかった読書では、鵜呑みの快感は得られないのだ。
へんに冷静になってしまったというか、
メタ視点入っちゃった、というか。
するとどうしたことでしょう、
訂正されているのは一部なのに、ストロースさんの言っていること全体が、喉を通らなくなるのだ。
一冊読み終わっても、何を言ってたんだっけ?状態になる。
もしかしたら、私の情報処理の特徴なのかもしれない。ゼロか100か。
職場の先輩達の、言ってることが人によって違ったりすると混乱するのも。(鵜呑みにしてないで、自分の頭で考えないといけないんだよね。)
必ずしも正しくない情報が混ざってる、と知った瞬間、それは毒入りです、と言われたかのように、飲み込めなくなるのだ。
鵜呑みか断食かのどちらかではなくて、
びっくりするほど器用に苦手な野菜だけ選り分けるこどものように、
間違った部分は置いておくけれども
ほかの部分は味わったり血肉にできる能力が必要なのかもしれない。
今度、好き嫌いのある子どもがいたら、「なんでも鵜呑みにしないなんてすごいなー」って目で見れるだろうか。