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単なる宿屋として。

この宿の正式名称は、「おたるないバックパッカーズホステル杜の樹」という。英語表記では "The Otaorunai Backpackers' Hostel MorinoKi" である。

「おたるない "Otaornai"」とは、小樽地名の由来であるアイヌ語の「Ota-or-nai(砂浜の中の川)」からで、決して「小樽の中」という意味の「小樽内」ではない。
単純に「小樽」ではなく、先住民族であるアイヌ民族の言葉を使いたかった。

「バックパッカー "Backpacker"」とは、バックを背負って旅をする個人旅行者のことであり、そういう旅人のための宿「ホステル "Hostel"」なので「バックパッカーズホステル "Backpackers' Hostel"」となる。
オープン当時の1999年にはまだ「ゲストハウス」という言葉はほとんど存在していなかったし、宿をやろうと思い立ったニュージーランドでも「Backpackers' Hostel」が一般的であった。最初は「Backpackers'」だけにしようかと思ったが、ニュージーランドの友人が「それではダメだ。それじゃ、何の店なのか分からない。Backpackers' Cafeもあれば、Backpackers' Bookshopもあるし、Backpackers' Busだってある」と、アドバイスを受けた。
「ホステル "Hostel"」は、「ホテル "Hotel"」と同じ語源で、ラテン語の “hospes”(旅人・巡礼者)であるといわれている。これは“Hospital”(病院)の語源と同じ。つまり、ホステルもホテルも病院も疲れた旅人(病人)が安らぎと憩いを求め、リフレッシュあるいは治癒し、またそこから旅立っていくという場所なのだと思っているので、ゲストハウスより意味合い的には好きだ。
余談ではあるが、同じ派生語として“Hospitality”(ホスピタリティ・おもてなし)も生まれた。日本語の「もてなし」の語源は「モノを持って成し遂げる」という意味で、接客業・サービス業の限らず、すべての家、人に言えることである。つまり“おもてなし”とは一般的なことで、それほど仰々しいことではないと思っている。自宅に家に客人が来たときの対応でいい。それにその家その家におもてなしの仕方があるように、観光地や店もそれぞれのやり方でいいと思う。お茶菓子に漬け物を出すところもあれば、ふかふかのソファーでケーキを出すところがあってもいいのだ。背伸びをせず、他にはない個性溢れるおもてなしが、旅人にとってステキなことだったりすると自分では思っている。

「杜の樹(もりのき)」近くに水天宮という神社があり、その昔は、この一帯が神社を中心とした小高い「鎮守の杜」だったのだろうということで、その「杜の中の一本の樹」という意味でつけた。また、この町を大きな森ととらえ、その中の1本の木であり、そういう木が集まって、この森(町)を形成しているという考えや僕自身がたくさんの人(木々)の中の名もない1本の木に過ぎない。。。という思いもある。

杜の樹は、単なる「宿」です。
また、「旅先のあなたの家」です。
カフェもなければバーもレストランもありません。卓球台もなければ、温泉もありません。ちなみにTVもない。
でも、その全ては「この宿」の外、「この町」にあります。
ごはんを食べたければ、あの店やこっちの店へ。コーヒーならこことかここもいい。温泉はここにあるし、呑みに行くのならこことかここ。 宿にはなんにもないが、町にはなんでもある。
自分のうちで過ごすように、この町を楽しんで欲しい。
ここはそんな宿です。

改めてもう一度言いますが、杜の樹は「宿」です。
イベント屋ではありません。
なので、杜の樹が主体となって宿でイベントをやることは、まずありません。毎晩のように旅人が集まって呑み会もありません。宿は何も強制しません。
旅人同士で飲みたければ、それもいいし、歌いたければ歌うのもいい。静かに本や漫画を読むのもいい。犬や猫と戯れるのもいい。宿のオヤジ相手に語るのもいい。
選択権は旅人にある。

「旅人は自由」です。

そこには年齢も性別も国も政治的、宗教的思想もありません。
旅人は旅人でしかなく、すべてのものから独立したただひとりの自由な存在であると思っています。
そんな旅人を受け入れる「宿」もまたすべてのものから独立したただ一軒の自由な存在でなければならない。
何かの団体に入ったり、仲良しのネットワークを組んだりするのは、極力避けたいと思っています。独立した自由な旅人のためにできるだけ、シガラミの無い宿でありたい。
一人旅を受け入れる宿もまたただ一軒の宿でありたい。

でも、誰とでも協力し合います。
旅人に有効であるのなら、どんな人とでも組む。
その旅人にとって、オススメできる情報は、知っている限り教えたい。
例えば次の宿を紹介するとき、何かのネットワークに入っていたら、その仲良しの宿を教えるだろうが、僕は一切そういうことはなく、その旅人が楽しめるであろう宿を紹介する。それが必ずしも正解とは限らないが。

何度も言いますが、杜の樹は単なる「宿屋」です。
それ以上でも、それ以下でもありません。
「あの宿があるから、あの町に行こう」という「目的の宿がある町に行くのではなく」のではなく、
「あの町に行こう。ついでにあの宿に泊まろう」という「目的の町にある宿屋のひとつ」でありたいと思っています。
この町のほんの一部でいたい。

森の中にはたくさんの木があります。
大きくて太い木、もう朽ち果てようとする木、芽吹いたばかりの木、綺麗な花を咲かせる木、美味しい実をつける木、リスが巣を作る木、鳥がちょっと羽を休める木、などなど
杜の樹はそんなたくさんの木のある森の中の名も無い一本の木なのです。 願わくは通りすがりの旅人がちょっとでも休まるような木でありたい。

木は森に対して、森をよりよくしようとか、森の活性化のために何かを作るとか、あるいは、壊す、とかはしない。
ただそこの木がある。
それが重要で、そこにあり続けるだけで十分だと思っている。

それは、この町に対しても、旅人に対しても同じことで、
絆だとか、繋がりだとか、縁だとか、活性化だとかを前面に出すのではなく、
この宿は、旅人の旅の一部であり、この町の一部であり、
旅人と共にあり、町と共にある。
旅人の旅の記憶の片隅にあればいい。
町の片隅にあればいい。
それでいいい。
ただ、ここにあることによって、そこから生じる何らかの繋がりは、宿のものではなく、旅人のもので、旅人の力だと思っている。

それが杜の樹という宿屋なのです。

単なる宿屋なのです。

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