ツボ

 友人のHさんは鍼灸師をしている。鍼や灸で人体のツボを刺激し、肉体や精神の不調を改善する仕事だ。
 Hさんは腕が良いと評判の鍼灸師で、次から次へと患者が押し寄せてくる。常連の中には、生涯Hさんの施術しか受けない、と決めている人も多いらしい。
 何故、そんなに人気なのか。
 Hさんには人体の気の流れと、それが溜まる場所、つまりツボが、はっきりと見えるのだそうだ。
 元々、鍼灸というものは、人体の気や血の流れを診て施術するものだ。ただそれは、まず先に問診や脈診などによって患者の状態を知り、その上で、歴史のなかで蓄積してきた知識――ツボを利用して行うものだ。つまり、情報収集と知識は欠かせない。
 勿論、Hさんも問診等はするし、知識も十分に備えている。しかし、それらがなかったとしても、Hさんには見るだけで全てが分かってしまうらしい。
「まあ、単純に『見る』というのとは少し違うけれど」
とHさんは言う。
 患者を目の前にすると、その人の体内のどこをどうエネルギーが流れ、ツボがどこにあり、どこを施術すればよいか、一瞬で脳内にイメージが浮かぶのだそうだ。
「引力のようなものかなと思ってるんだけど」
 流れるような手つきで私に施術しながら、Hさんは語る。
 月の引力が人体に影響を与えると言われるように、磁気が血行を促進すると考えられているように、引力は人間に作用する。そんな引力が、人と人の間にも存在するのではないか。そして、それを感じとる力が通常より強いために、自分には患者のエネルギーの流れが「見える」のではないか。
 その推測が正しいかどうか、それは分からない。しかし、Hさんは「ツボに引き寄せられる」という感覚を頻繁に味わうのだという。患者が治療を必要としているツボに、自然と手が引き寄せられる。考えるよりも先に手が導かれる。
「人体のエネルギー、気、かな。それが僕を引き寄せているように思うんだよね」
 でも、とHさんは少し声を落とした。
「たまにね、変なツボに導かれることがあるんだ」
 私のツボに鍼を刺しながら続ける。
「こういう普通のツボはね、光って見えるの。特に治療が必要なところは強く光っててね、刺してくれって主張してくるんだよ。だから自然と手が向かう。ほら、気持ちいいでしょ? けどね、」
 いつもは快活な声が、どこか物憂げに潜められる。
「そのツボは光ってないんだ。むしろ暗い。穴みたいに黒くて、渦を巻いてる。場所もおかしくてね。そんな場所にあるわけないってところにあるんだよ。なんのツボだかわかんないんだよね。見た瞬間に、あ、ヤバいなって思う。刺したら絶対によくないやつだって。でも、気がつくと刺す寸前だった、なんてことが何度もあってね」
 物凄い引力なんだ、とHさんは言う。
「一瞬、意識を奪われるくらいに引っ張られるんだよ。なんなんだろうね、あれ」
「僕ね、思うんだけど。体がね、求めてるのかなって。患者さん本人は治療を求めてる。体の不調を治して、早く動きたい。でも、体はもう休ませてくれーって思ってることもあるんじゃないかな。体はずっと動いてるもんねえ。もう二度と動きたくないって思ってても、自分では止められない。だから……なのかな」 
 Hさんは鍼を打ち込みながら、考え込むように黙ってしまった。
 静かに鍼だけが刺されていく。
「あ」
 Hさんが声をあげた。
 驚いて見上げる。
 目が合った。
「なーんてね」
 Hさんはニヤリと笑った。
「冗談、冗談。そんなツボ、ないよ。……今日はね」
 


 


 

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