彼岸花

 不思議なことは起こっていない。
 幽霊、妖怪、その他オカルト。いわゆる「超常現象」と呼ばれることは何ひとつ起こっていない。
 なのに不思議だと思ってしまう。あれは怪異ではなかったかと振り返る。
 そんなことが、誰にでもひとつくらいはあるのではないだろうか。

 Bさんの話。
 彼は中学生のころ、ある地方都市の一軒家に、家族とともに暮らしていた。
 周囲は、同じく一軒家やアパートなどが立ち並ぶ住宅街。昔ながらの雰囲気がほどよく残る閑静な住宅街だったという。

 ある夏の深夜。時刻は日付けが変わろうとする頃。
 そろそろ寝ようとしていたBさんの耳に、何か軽い金属音が聞こえてきた。外からのようだ。
 Bさんは自室の窓から外を見下ろした。部屋は二階にあるため、家の前の道路がよく見える。
 街灯に照らされた道路には、自転車に乗った人影が2つあった。背の高いひょろりとした中年の男性と、その後ろに、小柄な小学生くらいの少年。親子だろうか。二人は同じような銀色の自転車に乗り、同じような白いTシャツとデニムを着ている。
 彼らは前後に並んだまま、スーッと視界を横切っていった。チャリチャリ、と自転車のチェーンが擦れる特徴的な音を立てた。
 Bさんが聞いた金属音はこれのようだ。
 しかし、Bさんは音の正体よりも、二人の行動が気にかかった。
 こんな夜中に自転車で散歩?
 父親はともかく、後ろの少年は小学校にあがったばかりの年齢に見えた。普通なら、とっくに就寝時間のはずだ。何故、こんな夜更けに親子で自転車を漕いでいるのだろう。
 しかし、人には様々な事情がある。何か特別な用事でもあったのかもしれない。
 そう考えて、Bさんはカーテンを閉め、床に就いた。

 翌日。昨日と同じく日付が変わる頃。また金属音が聞こえた。
 カーテンの隙間を広げて見下ろすと、またあの親子が自転車に乗っている。昨日と同じ銀色の自転車、白Tシャツとデニム。そして、また前後に並んで自転車を漕いでいる。
 街灯の弱い光ではよく見えないが、親子に会話はないように思えた。二人とも無表情で、ただひたすらにペダルを踏んでいる。その様子は、とても楽しそうには見えない。
 なんでこんな時間に――。
 昨夜と同じ疑問を胸に呟くうち、親子はスーッと通り過ぎ、Bさんの家の角を曲がっていった。
 なんなんだろう、あの親子。
 どこか釈然としない気分で、Bさんはカーテンを閉め直した。そのまま寝る準備を始める。
 と、また金属音が聞こえた。えっ、とBさんは窓に寄った。
 また親子がいた。自転車を前後に並べ、無表情で、家の前の道路を通過していく。さっきと全く変わらない、リピート再生したように同じ光景。
 親子は目の前を通り過ぎると、またBさんの家の角を曲がって消えた。
 その夜、親子はBさんの家の周りを三度回り、その後どこかへ消えていった。

 奇妙な親子の来訪は、それから毎夜続いた。
 必ず日付が変わる頃に現れ、自転車を前後に並べ、無表情でBさんの家を三度回って帰る。
 それだけだ。
 それだけなので、奇妙だけれど、何かする必要があるとも思えない。親に報告するのも躊躇われる。
 Bさんは毎夜、ただ親子の自転車を見送った。

 一週間が過ぎた頃。
「最近、家の塀に落書きする人がいるんよ」
 同居の祖母が言い出した。
 祖母は毎日、庭や家の周囲の手入れを欠かさず行っている。その折に見つけたのだと言う。
「小さいけど、毎日あるんよ」
 家の周囲を巡っているブロック塀。その一角に、小さな落書きがあるという。
 落書きは親指の先ほどの大きさ。ピンク色をしている。ただ色は目立つが、チョークか何かで書かれているのか、擦るとすぐに消えるらしい。
「小さいし、拭けば消えるんだけどね、朝になると必ず描いてあるんよ」
 日中に祖母がきれいに拭き取るのだが、次の朝になると、また同じ場所に同じ絵が描かれているのだという。
「ピンクの……お花? 花のように見えるけどねえ。チューリップ……じゃないし、菊……とも違うかねえ。でも、花が描いてある。南西の角のところだよ」
 南西の角。
 それを聞いて、Bさんはドキリとした。
 自転車の親子がたまに僅かな時間、停車している場所がある。それが南西の角なのだ。
 といっても、落書きしている場面を直に見たわけではない。塀に遮られて手元は見えないし、停車しているのもほんの数秒だけだ。ただ止まっていただけかもしれないし、周囲の安全確認をしていただけかもしれない。偶然、落書きの場所と停車場所が一致していただけの可能性も大いにある。
 しかし、妙な符合がひどく気に掛かった。
 それからしばらく、Bさんは親子の行動をより注意して見るようになった。
 だが、どれだけ観察を続けても、落書きしている素振りなど、一切見ることはなかった。

 真夜中の親子訪問はそれからも続いた。
 塀の落書きも続いた。
 そして、ひと月が過ぎた頃。
 不意に親子の訪問がぱったりと止んだ。
 同時に、塀に落書きされることもなくなった。
 何事もなかったように、日々は過ぎていった。

 一体、なんだったのだろう。
 親子の姿を見なくなってからも、Bさんはたびたび思い返しては首をひねった。
 だが、何が分かるわけもない。奇妙な思いだけを胸に抱きながら、Bさんは変わりなく生活した。
 そのうち思い出すこともなくなっていった。

 秋。
「彼岸花が咲いたんよ」
 祖母が、庭に彼岸花が咲いたと、夕食時に家族に言った。
 毎年、秋になると庭に彼岸花が咲く。ブロック塀の内側に沿うように、一列に並んだ赤い花は、地上に開いた花火のようで壮観だ。
 特に祖母は毎年彼岸花を楽しみにしていた。
「今年もよう咲いてるよ」 
 にこにことした祖母は、ふと不思議そうな表情をした。
「そういえば、なんでかねえ、今年は影のとこにも咲いとるのよ」
 庭の隅、ブロック塀の交わるところは、
日光が遮られ、一日のほとんどが影になっている。特に南西の角は、様々な悪条件が重なっているのか、常に薄暗く、周囲とは違う重く淀むような空気が漂っていた。そのため家族の間では、その南西の一角を「影のところ」「影の場所」などと呼ぶのが習慣になっていた。
「あそこに何か生えるなんて見たことがないんだけどねえ」
 祖母の言う通り、南西の角は、常に土しかない不毛の地だった。どんなに土を改良しようが、種を撒こうが、一切の植物を受け付けない。雑草すらも生えない、どこか異様さすら感じる場所。
 そんな場所に、突然彼岸花が咲いたという。家族は皆、驚いた。
「いや、何もしとらんよ。本当に何も。なのに、急に生えてきたんよ、二本だけ」
 ひょろりと長い大きな花と、一回り小さい小柄な花。二本は寄り添うように咲き、風が吹くと、赤い頭を並べて同じ方向に揺れているという。
 その光景を脳裏に浮かべたとき、Bさんは何故かあの親子のことを思い出した。
 ひょろりとした父親と、小柄な少年。前後に並んで、同じ方向へ進む。なんとなく二本の彼岸花に似ている気がする。
「あ」
 Bさんの口から声が漏れた。
 「影のところ」は南西の角。南西といえば、ブロック塀の外側に落書きがされていた場所だ。
 たしか祖母は花のような落書きだったと言っていた。絵柄が稚拙で花の種類を判別することは出来なかったようだが、もしかすると、ピンク色で描かれたそれは彼岸花ではなかったか――。
 偶然。全ては偶然かもしれない。
 しかし、Bさんの胸のうちに、ざらりとした違和感が広がった。

 翌日の夕方、Bさんは庭に出て、影にある彼岸花を見ていた。
 黄昏の光も届かない、既に夜が下りたような暗い隅で、二つの花は燃えるように真っ赤に咲き誇っている。その生き生きと艶めく立ち姿を見つめていると、何故か胸が不安にざわめいた。
「そういえばねえ」
 いつの間にか隣に立っていた祖母が、独り言のように呟いた。
「あの角にはね、昔、小さい祠があったんよ」
 祖母が少女の頃、影の場所には、小さな石の祠があったという。
 随分古くからある祠のようで、石は黒ずみ、屋根の角は欠けていた。ご神体が入っているはずの両開きの扉も、いつか強い炎に炙られでもしたのか、真っ黒に焦げて煤けていた。
「なんだか嫌な感じの祠だったねえ」
 大人たちは、あの祠には決して近付いてはいけないと、事あるごとに繰り返したが、祖母も近付くつもりは毛頭なかった。
「黒く焼けた扉が妙に不吉に感じてねえ……。それから、その隙間から見える奥がねえ。なんというか、井戸の底を覗いたときみたいに真っ黒でねえ。怖かったねえ」
 大人たちも、滅多に祠に近付くことはなかった。皆、祠を恐れているようだったという。
「ただ、たまに……年に一、二度かねえ、祠にお参りに来る人がおったよ」
 その人は神職のような身なりではなかった。かといって、親族でもなさそうだった。どういう素性かわからない、知らないおじさんが、年に一、二度、不意に庭に現れて祠に祈りを捧げていたという。
「本当は、大人たちはあの人が誰だか知ってたのかもしれんけどね。でも、挨拶をしてるところも見たことないし、気がつくと急にいたからねえ……。昔は人じゃないんじゃないかと思ってたねえ」
 また、その人が現れると、親たちは祖母や兄弟に部屋に入るように促した。そして、参拝の様子を見ることを禁じたという。
「でもねえ、気になるだろ」
 あるとき、祖母はこっそりと廊下の隅から参拝する男を観察した。
 男は、ところどころ擦り切れた着物を着て、手足が妙に黒く汚れていた。彼は頭を垂れ、目を閉じて、何事かを一心に祈っていた。しかしその様子は、祖母たちが神社などへ行ったときにする軽い祈りとは違い、ひどく切迫した緊張感を漂わせていたという。
「魂を捧げた祈りっていうのかねえ。全身全霊で何かを訴えてるみたいだったよ。……そうだねえ、あれは祈ってるっていうより……呪ってるみたいだったねえ」
 祈りの途中、男は祠の扉の前で、小さな火を灯した。枯れ草か何かの塊に火を点けたものを、供え物のように石の扉の前に置く。
「そうだ。あの炎。あの炎だ。なんだかわからないけど、長く燃えてた。いつまでも、いつまでも真っ赤に……。そう、ちょうどその彼岸花みたいにねえ……」
 祖母はどこか遠くを見るような目を、南西の角に投げた。
 視線の先で、闇に咲く彼岸花が風に揺れる。ゆらゆらと揺らめく二つの花は、消えない炎のように、どこまでも鮮やかに赤かった。

 南西の角の彼岸花は、それからもしばらく咲き続けた。
 他の場所の彼岸花が色褪せ、萎れていっても、瑞々しく艷やかな赤色をいつまでも保ち続けながら。そして、ある朝、突然に枯れていた。 
 翌年も、そのまた翌年も、南西の角に彼岸花は咲いた。そして三年が過ぎたあと、ぱったりと生えなくなった。
 以降、現在に至るまで、南西の角に彼岸花が咲いたことはない。


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