晩秋の栗と山の家
今、日本は栗の季節で、このnoteの記事やSNSでも栗ご飯や栗スウィーツの話題、写真が満載だ。
栗を食べる習慣もなく、栗の木も育たない国に暮らす私は、それらが羨ましく、ただ指を咥えて見ている(悲)
栗というと思い出す情景がある。
まだ息子が1歳を迎えたばかりの幼児の頃、久々の一時帰国を父の山の家で過ごした、日本での記憶だ。
街の中心部から1時間ほど車を走らせ、曲がりくねった山道をぐんぐん登ってゆくと、深い谷に囲まれた山奥の僅かに開かれた土地に、その古民家はあった。
打ち捨てられ廃屋同然だった家を破格の値で購入した父は、自分で床や天井などを張り替え修理し、10数年暮らした。
大工が自分のために建てたというその家は、古いながらも、黒々とした太く頑丈な梁が天井に張り巡らされ、土壁、蚕部屋だったという半二階もあり、骨組みはしっかりとしていた。
農家に生まれ育った父は、仕事を引退した後、自分達が食べる分だけ畑で野菜などを育て、その山の家で70代後半くらいまでは半自給自足のようなことをしていた。
家の裏庭には、水が綺麗な所にしか育たないと言われる葉山葵の、白い小さな花が春先になるとびっしり生い茂っていた。
季節は晩秋、日頃は極寒の国で暮らしているといっても、半袖で過ごせるほど暖かい室内に慣れきった私も夫も、到着早々、山の家の底冷えするような寒さに震え上がった。
石油ストーブをつけていても吐く息は白く、とにかく家の中がゾクゾクするほど寒い。
父は室内でもダウンベストを着て水炊きの用意をし、皆で鍋を囲んだが、北の男である筈の夫は耐え切れず、真っ先に、持参した毛糸帽を被り山岳救助隊みたいなジャケットとズボンを着込み、父から借りたどてらを羽織ったもののツンツルテンの案山子みたいな格好になり、息子は頬を真っ赤にし鼻水をダラダラ垂らしていた(苦笑)
これはマズいと思った私は、翌日、父に頼みユ◯クロに車を飛ばしてもらい、家族分のヒートテック下着やらスパッツなど防寒着を買い込んだ。こちらの国に比べてかなり暖かいはずの日本で、こんな買い物をすることになろうとは(苦笑)
昼間、まだよちよち歩きの息子の手を引き、うら寂しくひなびた山道を散歩していたら、道端にイガがついたままの栗が、ゴロゴロたくさん転がっているのを発見。
「こりゃあ猿が落どしで行ったんだべない」
「裏山の猿のやづ、うっつぁしくで、ごせやげんだ」(うるさくて、腹が立つんだ)
「くらつけてやっつぉ!」(殴ってやるぞ!)
父はそう言いつつ、猿の置き土産の栗を皆で拾って、その日の夕飯は栗ご飯になった。
息子は栗を見たのも初めてで、まあまあ街中で育った私も毬栗は手にしたことはなかった。
父が靴底でガシガシ栗を踏みつけイガを取る様子を見た息子は、キャッキャッと声を上げ手を叩いて喜んだ。
それがよっぽど楽しかったのか、それから帰るまでの間、息子は父の後を付いて回り、父も満更でもなかったらしく、息子を抱っこして納屋に入り中にある工具を見せたり、畑に連れて行ったりした。
父と息子の交流らしきものはこの時くらいだったので、私もよく覚えている。
息子は今でも栗が大好きで、クリスマスマーケットのシーズンになると、毎年ドイツからやって来る焼き栗屋さんの屋台を楽しみにしていて、見かけると必ず買ってくれとせがむ。
山の家の近隣にはダムがあり、車で見に行くと、ダム湖畔に燃えるような橙色をした大きな夕陽が落ちるところだった。
そこにはかつて小さな集落があり、今も当時のままダムの底に沈んでいるという。
畳敷きの部屋に布団を敷いて寝ていると、早朝でも真夜中でも、暗がりの中、耳元では谷間から流れる轟々という渓流の音が聞こえていた。
夜は街灯もほとんどなく家の周りは真っ暗で、車一台通るのがやっとの、細く曲がりくねったカーブの連続ばかりである山道を運転してここまで来るのは、運転歴が長い妹でも怖いと言っていた。
そんな道を、雨の日にほとんど前方が見えないような状態でも、父の運転だとけっこうなスピードを上げて走ってゆくので、いつ谷底に落ちやしないかと、同乗しているこちらの方が気が気でなかった。
そんな父も80歳近くになった頃には、流石に山での暮らしが難儀になったらしく、ついに山を降り、晩年は街中の家で生活していた。
私たち家族が一時帰国し山の家に泊まったのは、この時と、それから4年後が最後となった。
この頃は晩年ほど私たち姉妹と父、その再婚相手との関係もまだ拗れていなかったと思う。
小さかった頃、日本を訪れたことはほとんど覚えていない息子だけれど、山の家での体験はよほど印象的だったらしく、今でも、あの家にはもう行かないの?と聞いてくる。
あんなに寒がって、日本の冬に一時帰国するのはもうこりごりだ…と渋っている夫でさえ、あの山の家を自分たちで購入し譲り受けることは出来ないのか?と、時折思いついたように言ってきたりする。
それだけ私たち家族の中でも妙に忘れられない山の家だけれど、心の隅で私は、もう朽ちるに任せてしまってもよいのではないか、とも思っている。
父が亡くなる前からすでに、何年も山の家を管理する者はなく、今ごろは、元の打ち捨てられた廃屋に戻っているかもしれない。
父との恩讐の彼方
いつか、山の家も土へと還るのだろうーー