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生活の中での学習形態を考える

この数年間、経験と学びの同時進行の学習を考えている。私は在日外国人生活者に日本語を教えている関係で、彼らから差し迫った用事で日本語の質問を受けることがある。内容は千差万別で話し方から手続き関係のことまである。子供が病気のときなどは結構急を要することもあった。私に相手の問題ついて経験や知識がないこともある。そういうときは、結構大変だ。

生活言語としての日本語

このように生活における言語はサバイバルであり、ことばの学習では片付かないことが多い。内容は人それぞれであり事情も違う。そこにあるのは、日本語という言葉の側面だけではなく、やり方や問い合わせなど手順まで多くのことが関わってくる。このような社会システムの中での実践的な日本語や仕組みを外国人生活者がどう学び、理解していくかはひとつの課題だと思う。そのようなことを日本語教室での学習にどう落とし込むかを考え、試行錯誤を繰り返す。

生活の言語は現場学習から

学校の授業で文法や表現を学ぶという悠長なものではない、というのが生活者の声だと思う。特に、ご主人の仕事の関係で(好む好まないに拘わらず)日本で生活をはじめなければならない家族の負担は私たちが想像する以上に大変なものがある。子供の教育も然りだ。言葉が全くわからない。助けてくれる人が殆どいない、孤立無援だったという外国人生活者も多い。例えば、買い物ひとつにしても、お店の中は全て日本語で、「もう何が何だかわからなかった。 」という経験談を話してくれる外国人生活者は多い。私たちにとって当たり前な物事は彼らにとって全く別次元のものであることも多い。言葉も大切であるが、まず、現場に慣れることが優先されるのかもしれない。その上での言葉なのではないだろうか。ネイティブとして一緒に歩いてくれるだけでも日本に来たばかりの外国人生活者とっては心強いと言われたことがある。

リアルアクティブラーニング

いつもやっていることではないが、何度か来日したばかりの外国人生活者(いつも3人ぐらいの小グループ)に買い物(食料調達や薬など)や乗り物の乗り方などを実際に経験させて学ぶ授業をやったことがある。たいていは、質問や意見交換がすごいことになり予定時間を数時間もオーバーする。きっと、彼女らにとっては大冒険なんだと思う。(たいていのみなさんは主婦)ただ、ある一定の経験と知識を得られることで、精神的に安心できるようである。それまでは戦々恐々だったという。もちろん、簡単な日本語や表現も教えるが、それらは学校で教えるような文法ではない。いわば、キラーフレーズともいえるような必須表現である。自分でも言える、相手に言われてもわかるというようなものだ。すごいのは、短時間の内にかなりおぼえてしまうこと。そして、学習中に繰り返し口に出して使うことで覚えていく。「実際にやる」ことは百教えるよりも効果があることを実感する瞬間でもある。

学習者はよく観察している

印象に残っているのが経験授業のとき、学習者は私がお店の人や駅員などとする会話をよく観察しているということだった。彼女らは、印象に残った音(ことば)やフレーズなどをあとで質問するのだ。私の一挙手一投足をよく観察していた。そうした中で出てきた必要な言葉は説明して教えるようにした。中には、「先生はこんなアクションをしながら、○○って話していた」と真似して説明されて、こちらはちょっと気恥ずかしかった。
また、彼女らはよく見る看板、目印や音などにも注意を払っていて、よく見る漢字(形として覚えている人がいた)や音の出る信号機などについていろいろな質問が出た。「自分の国にはこんなのはない」とか意味を知っておどろいたりと、学習しながらもかなり楽しんでいた。私たちにとっての当たり前(普通)は他国の人にとって新しく、普通ではないものなのだ。

書を捨てて街に出る

教室で授業もいいが、時に教科書もノートも忘れて一緒に歩いてなにかを見つける、一緒に感じるそして話すことが真の学習になる。それは、外国人生活者だけではなく、日本人である私にとっても新しい発見を彼らによって学ぶことになる。街に出て共に何かを経験することは相互に大きな学びもたらす。共にあることそのものが学びなのだと気付かされるのだ。

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