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小説『Underground アリサ』2022年加筆修正版

第1回 花束

 地下アイドルのアリサはライブハウスの楽屋にいた。つい先ほど特典会でファンから貰ったばかりの、緑色の包装紙で包まれた花束を両手で握り、それを後ろに引き振りかぶっては空中に野球ボールでもあるかのように素振りの動作で花束を振り回していた。そうしているアリサの目には、打ち抜いてホームラン、そして場外へ消えて欲しい黒い球が見えていた。そう。白くはない。黒い。『黒髪で猫好きのあの女が憎い』アリサはその一心で花束を振り回し続けていた。床に、白いユリの花弁がハラハラと落ちていることに気づきもせずに。

 アリサは今のアイドルグループ「ラ・ Sylphide」(ラ・シルフィード)に追加メンバーとして加入する以前に2つのアイドルグループで活動していたがどちらも一身上の都合で脱退していた。今日は3つ目のグループとなる「ラ・Sylphide」での新メンバーお披露目の日であった。加入する前から付いているファンから受け入れられるだろうかという不安は大きかったが、アリサはもうひとつ大きな不安、そして怒りを抱えていた。

 アリサにはひとつ前のグループを抜けてから1年ほど、どこのグループにも所属しておらず依頼のきたモデルの仕事だけをしていた時期があった。その時にアリサは片思いをしていた。相手はひと回り年上のバンドマンだった。バンドのライブには欠かさず通いつめ、前のグループ所属時代からアカウントを変えていないSNSアカウントでは、好きなバンドマンの書いた歌詞の一部を抜き書きして自撮りに添えて投稿したり、歌詞から連想される絵文字を付けて自撮りを投稿したりしていた。当然バンドマンのアカウントはフォローしており、相手からもフォローが返ってきていた。

 『見てもらえている。アリサはあの人に見てもらえている』(アリサは自分のことを名前で呼ぶ。心の中でもSNS上でも)

 アリサのその『見てもらえている』という実感と快感はとどまることを知らず、1日1善ならず、1日1特定バンドマン愛をSNSに投稿していた。その他にアリサのやっていたことと言えば、相手のバンドマンが過去にSNSに投稿したことのあるご飯やお菓子と同じ物を「これ、美味しい」と自分のSNSにも投稿することであった。そういった投稿全てに、アリサがまた新たにアイドルグループに所属することを待っている、ほとんどは男性ファンからの「アリサちゃんがよく食べているじゃがりこを今日は食べたよ」などとコメントが付いていた。アリサはそのコメントに少しの罪悪感もなく「いいね」を押す。「いいね」を押すのは、次にグループに所属することが決まった時に、引き続きファンでいてもらうためだ。だが、その食べ物はアリサ自身の好きな物ではないので、アリサのファンは結果的に、そのファンが中年男性であれば、中年男性が名前も知らない中年バンドマンと同じ食べ物を食べて幸福感を味わう、そんな奇妙な現象をアリサは起こしていた。
 
 アリサもまたささやかな幸福感を味わっていた。それは、バンドマンが時々、「新しい味のを買ってみたけど、これも美味しいな~」といった、明らかにアリサを意識した反応の投稿が日にち差で返ってきていたからだ。

 ところがアリサのその幸福な日常は、バンドの新参ファン1人によって壊されることとなった。

第2回 視線

 そのある出来事は、アリサが楽屋で花束を素振りしていた、新グループ所属初ライブの日より遡ること半年前に起きた。

 地下アイドル界隈では、SNSでファンからのコメントにいいねを押したり積極的にコメントを返したりするのが珍しくない時世であり「推し変」をされないために1日のうちに空いた時間を見計らっては、あるいは忙しくても楽屋や自宅の湯船の中などでSNSをチェックするアイドルは多くいた。アリサはそれに加えバンドマンに「見てもらう」ための上記の行動と、それからバンド名検索と、そこから導き出したバンドマンのファンを、非公開リストに入れて「見る」ことによって一般人のファンがアリサの好きなバンドマンとSNS交流をしていないか、はっきりと言って自分より他の女が好かれていないかとても気にかけていた。

 そんな中、アリサにとっては忌まわしくも実直にバンドマンへの愛情をストレートに表現する一般人と思しき女性が現れた。

「私は子ども時代親に虐待を受けたり大変な境遇でしたが、このバンドの音楽に救われてきました。このバンドに出会っていなかったら自殺していたかも……。あっ! このリンク先に私のブログがあるんですけど、私の書いた私小説を載せています」

「今日、初めて生でライブを観られたーー! 家庭環境だけでなくて心身の調子もあんまり良くなくて、ライブハウスは敬遠していたんですよ。だけど楽しかったからもっと早く観に行けば良かったな。ライブの帰りにじゃがりこを買っちゃった」

 アリサは1人の女性の登場をスマホ越しに絶句しながら「見ていた」。それからというもの毎日欠かさずその女性のアカウントの投稿をチェックしていた。その女性の本名はわからないがSNSアカウント名は蒼であった。アリサが蒼のSNS投稿を遡ってみると、動画サイトからリンクを持ってきた猫の動画を蒼はよく貼り付けて投稿しており「かあいい」「この子もかあいい」と書いていた。アリサには蒼がなぜ「かわいい」ではなく「かあいい」と表現するのかわからず、ぶりっ子キャラを作っているんだな、と思い込みますますウザイ女だと苛立ちを覚えた。

第3回 アイドルとバンドマン

 アリサの好きなバンドマンは勇気という名前で、活動休止期間が数年あったものの結成からライブハウスで20年間活動してきたロックバンド「セイムムリク」のギターボーカル・作詞作曲、と、バンドの要となる存在であった。アリサはセイムムリクの曲を高校時代に知り、ライブに初めて出向いたのはひとつ前のアイドルグループ所属時で「ラ・Sylphide」のメンバーとして加入した時には25歳であったがその頃のアリサは23歳だった。アリサの「ラ・ Sylphide」加入時には勇気37歳、アリサが初めて勇気を見たのは勇気35歳のときであった。2人は12歳、年が離れている。アリサの初恋の相手は中学時代の担任で以後も年上の男性に惹かれることが多かった。

 もしアリサが勇気に想いを伝えることができたとしてその想いを勇気が受け入れたとしも、アイドルとバンドマンが恋愛関係になることは、特にアイドル側のファンからは受け入れられにくいことであった。ファンからしてみれば推しのアイドルに彼氏がいると知ることは辛いことであり、相手がバンドマンであればさらに辛いことであった。アイドルの交際相手が会社員の男性であるよりもバンドマンであるほうが受け入れてもらえない、それが今現在の社会だった。

 前のアイドルグループを脱退してモデル活動などを行っていたあいだのアリサは厳密にはアイドルではなかった。だが、脱退してからもアイドルを引退するつもりはなくいくつかのグループからの誘いを慎重に断りつつ入りたいグループから誘いがあればふたつ返事で加入するつもりであったアリサは自分はアイドルだという意識を保っていた。アリサはまだ夢を捨てていなかった。

 だからアリサは想いをはっきりと伝えない。だからアリサはじゃがりこを食べまくる。だからアリサは絵文字で『今日も好きです』と伝えるだけにとどめている。この恋愛が進展したとして自分の夢とどう折り合いをつけていくのか、できるのか、それはアリサにとって考えたくないことだった。ただ溢れる気持ちを抑えきれずSNS投稿をして、勇気からの反応が返ってくれば束の間の安心を覚えていた。

第4回 犬と猫

 地下アイドルの中でも人気のある部類に入るグループ「ラ・ Sylphide」に追加メンバーとしての加入が決まってからのアリサの日々は、たちまち忙しくなった。「ラ・Sylphide」がすでに出している曲の歌も踊りも覚えないといけないためレッスンに行く日々であった。その毎日に関しては、追加メンバーのお披露目がまだされていないのでSNSでタイムリーに発信することはご法度で、アリサのSNS投稿は未だ1日1特定バンドマン愛=1日1勇気愛を綴り、そればかりが目立たないようにと前後には、「このころのアリサの髪型懐かしいな~」「アリサの愛犬ラテも元気だワン」といった投稿もして、平均してそれら合わせて1日5回ほどのSNS投稿をしていた。

 アリサは犬がとても好きだった。それだからラテと名付けて飼っている雄犬のシーズーに対しても、勇気に対してとは種類は違えど深い愛情を注いでいた。

『勇気さんにはアリサのことも好きになって欲しいし、ラテのことも好きになって欲しい』

 愛犬ラテを抱いたアリサ。その自撮りを一番見て欲しい相手はファンではなく勇気であった。

 ロックバンド「セイムムリク」は、バンドマンに客が話しかけたいと思えば終演後のちょっとした時間に客が話しかけに行き、サインをもらったり握手をしてもらったりすることができる、そういった規模での活動が続いていた。長年の活動によって獲得した固定客によってソールドアウトに近いかソールドアウトの状態で小さいライブハウスでライブを行い、求められればサインや握手などのファンサービスにも応じることが、客数とライブハウスの規模からいって可能であった。23歳からすでに2年間ライブを観に行っていたアリサだが、奥手と不器用さが相まって、アイドルという立場に支障のない話しかけ方から勇気と親しくなっていくという手順を踏むという考えはなかった。

『アリサは他のファンと違ってアイドルだから安易に愛を伝えてはいけない』

 恋をしている時に人が陥りがちな視野の狭さの中では、SNSこそ安易に、アリサの勇気への想いが、伝わらなくても良い人々に拡がっていくという危険性を孕んでいることがアリサには見えていなかった。また、若さと未熟さにより、人間の心理として、他人が隠したがっている秘密をうっかり知ってしまった人間は、ごく親しく大切な人以外の「秘密を抱える負担」というのを背負いたがらないものであるということに気づけずにいた。その結果としてアリサは憎い相手であるはずの蒼に、のちのちその負担を、知られてしまった以上強制的に背負ってもらうこととなる。その時になってもアリサは、蒼に何かをしてもらっているという感謝や申し訳なさを感じることはなかった。

第5回 黙認

 ライブハウスの楽屋でアリサが緑色の包装紙で包まれた花束を両手で握り、それを後ろに引き振りかぶっては空中に野球ボールでもあるかのように素振りの動作で花束を振り回していた時、楽屋にあった棚の上にはアリサ自身が置いて設定したスマホが動画撮影モードで稼働していた。

 アリサと同じく「ラ・Sylphide」追加メンバー同期の乃々が楽屋に入ってきた。「アリサちゃん、花束をくれたオタさんが見るように動画を撮っているの?」
 アリサは一瞬戸惑ったが、3人グループだった「ラ・Sylphide」に同期として加入した乃々とはレッスンやアー写撮影などの仕事の際にすでに打ち解けていたため、ほっとした表情で乃々に頷いて返した。
「そうなんだよね」
 アリサが言った。
「せっかくだから盛れるように撮りたくて、でもなかなかアリサ盛れなくて、さっきから何度も撮り直しているだけなんだ」
 小股で間近まで寄ってきた乃々の後頭部をアリサは見下ろしていた。唐突にアリサは乃々を抱きしめた。フルーツに似たシャンプーの香りがアリサの鼻をくすぐった。アリサはそれを心地良いと感じた。身長171センチのアリサよりも23センチ身長の低い148センチの乃々をそうして抱き止めているさなか、アリサは親しみを感じている乃々のことを蒼であるかのように錯覚して、乃々の両肩の少し下あたりに手を添えて優しく乃々を引き離した。
「乃々ちゃんもほら、オタさん用にSNSに上げる自撮りするところだったんじゃない? 時間ないし、お互い頑張って撮ろう」
 乃々ははっと気づいた顔をして、言った。
「乃々、ピグミンちゃんにここで2人で撮ろうって誘われてたんだった! ピグミンちゃんのこと探して2人でまた来る。じゃ、アリサちゃん、頑張ってね」

 アリサと乃々が今日加入お披露目されたことによって5人組のアイドルグループとなった「ラ・Sylphide」はそれまで3人組のグループで、3人のうちの1人であってグループのリーダーでもある、ピンク色担当のピグミンを探しに乃々は楽屋を出て行った。アリサは置いていたスマホを手に取って、乃々が来る前に試し撮りしていた花束を素振りする自分の姿をスマホの中に確認する。

『この感じで、台詞も付ければオッケー』
 独り言を言った。そしてアリサは計画通りの動画を撮影することに成功した。

 蒼が勇気のバンド「セイムムリク」のライブに続けて行くようになった時期と、アリサが「ラ・ Sylphide」加入に備えて忙しい日々を送る中「セイムムリク」のライブにはしばらく行けていない時期は、少しのずれはあったもののほぼ重なる時期であった。その間に起きたことと言えば、それまで勇気がアリサを意識したSNS投稿をしているとアリサは実感できていたのに、その立場が全て蒼に奪われた。まるで勇気と蒼がそこでチャットでもしているかのように人目をはばからず、2人は同じ話題について投稿し、返し、また投稿していた。アリサはそれを見て『勇気を盗られた』という怒りで頭がいっぱいになっていた。盗られたようなその立場に、蒼と違って一般人ではない自分が1人のファンにも咎められずにいられたことのほうが不思議で、束の間の幸せであった、という冷静な目で眺めることはアリサにはできなかった。

 勇気がSNSに何も投稿していないで蒼が1人つまらなそうにぽつっと何か投稿したところを見計らって、動画を自分のSNSに上げようと考えていた。蒼はアリサのSNSアカウントを知っているし見ている。そのことをアリサは知っている。

 きっかけは、アリサの「ラ・Sylphide」への加入が決まった日、勇気が、自分のバンドの曲ではない曲をSNS投稿していて、それは勇気のSNSの使い方としては珍しいことであり、その曲は昔から名曲と言われている曲であり応援歌としてのメッセージ性があった。

 その投稿に対して、蒼がこう投稿した。
「あっ! そっか。もう同じバンドファンという立場ではないんだな。勇気さんが応援するなら私もひっそりと心の中で応援していたい。それに、私はあの人がアイドルなのにバンドマンを好きだという秘密を抱えていることがどんどん辛くなってきていた……」

 アリサと蒼、両方のアカウントを見ていることが、少なくともアリサと、蒼にははっきりとわかっている勇気からの、蒼のその投稿に対しての言及はなかった。

第6回 殴る

 以前蒼が初めて「セイムムリク」のライブに行った時にその喜びとともにリンクを貼っていた蒼のブログのURLをアリサは保存し、全てのブログ記事に目を通していた。その中にひとつ、勝ち気なアリサが「あんな奴とアリサは違うさ」と思い他人事ながら許せないブログ記事があった。それは蒼が10代の頃を振り返って、崇拝するほどに好きな作家の元へ私は「花束を持ってサイン会があるたびに会いに行っていました。私は未だに文章を書くのが好きですが、彼女のような花束を貰える立場にはなれないでしょう」という文が含まれるものだった。

 10代の頃のアリサといえば、大学で勉学に励み、そこで学んだことを活かす仕事に当然就くだろうと期待していた親の期待と、大学在学中に新しく芽生えた、アイドルになりたいという夢のふたつの間で悩みに悩んでいた。そして大学3年の、周りは就活をしている時に、ひとつ目の所属グループとなるアイドルグループのオーディションを受けてアイドルになった。ひとつ目のグループに所属、グループの活動方針に納得がいかず脱退、次のグループに所属、表立っては言えなかったアイドルグループ運営側のずさんさやその他諸々にやはり納得がいかず脱退、そうして納得のいかないことは受け入れず、だがその都度「グループは辞めるがアイドルは辞めない」と固く意識していた。

『そうだ! 欲しくないふりをしている蒼に、勇気とのコミュニケーションだけでなくこれも欲しいんでしょう』
と見せびらかしてやろうとアリサは画策していた。

 蒼が、SNSにログインした。そして投稿をした。

 蒼の投稿
「このマンガ、懐かしいな。ヒロインがいろんなものを見て『かあいい』って表現するんだよね。私の世代では読んでいる人が少ないマンガだからこんなこと書いても誰とも共有できないかな。私の好きな小説もそう。新しいのだけでなく古いのもたくさん読んできたから、誰かに話しても私しか知らないの」
 アリサはそれを読んでチクリ、と胸が痛んだ。なんの痛みかはよくわからなかった。とにかく、蒼にこの撮り溜めた動画を見せないと。
『あ……! 動画を保存できていない。間違えて消してしまった。でも、タイミングは今しかない。勇気が見ていなくて蒼だけがSNSにいる今しか』
 アリサは計画を変更した。予め撮っていなくても今、動画配信をリアルタイムで行えばいい。そしてそれを観ることができるようにSNSにリンクを貼ればいい。
 勇気がSNS上にいなくて暇だった蒼はアリサのその短い時間の配信を、観た。動画投稿にしても同じことだが、ロムで観られても観られたかどうか確認するすべのなかったアリサは、1度きりの配信では蒼は観ないかもしれないが、3度やれば1度くらいは観るだろうと、3回配信を行った。配信中のアリサの頭に浮かぶのは憎たらしい蒼の顔であったので、蒼を思い出し、また、これが悪意であることをあの鈍感なのか妙に感の良い奴なんだかわからない蒼にも伝わるようにしないといけないと思った。

 勝ち誇った表情で、花束を、機転を効かせて練習していた時よりも自然に見えるように、尚かつ、本当かどうか蒼が子供の頃に親から虐待を受けていて怖い場面に出くわすと、身体の痙攣症状を起こすということをアリサは蒼のブログで読んでいたのでなんとしても怖がらせる必要はあった。
 貰い物の花束をアリサはぞんざいに振る。
「花束貰いました~。ん~ほんとに嬉しい。ありがとうございます。これから、ラ・ Sylphideの緑色担当として頑張っていきます」
 笑顔もなくぷつっとアリサは配信を切る。蒼がまた何か投稿するのを待つ。アリサは焦っているし怒っている。蒼に怒っている。
 次の蒼の投稿は短かった。
「なんか私いきなり本の話しちゃったな」
 蒼の投稿を見てまたアリサは配信を始める。
「観ていなかった方もいるかもしれないので。花束貰いました~」
 ぷつっ。
 3度目の蒼の投稿
「怖い……」
 3度目のアリサの配信
「何度もごめんなさい。花束貰いました~。ほんっとうに嬉しい。花束貰いました~」

 動画を撮ろうとしていた時にも振り回され、配信でも振り回された花束はその頃にはたくさん花弁を失くしていたがそこに着目する者はいなかった。

最終回 真相

 花束の配信ののちも、アリサは数ヶ月に渡ってSNSを利用し蒼を怖がらせ、蒼がSNSで発言することを妨害し続けた。そのうち蒼のSNSはパタリと更新が止まった。相変わらずまとまった時間が取れず勇気の出演するライブを観に行くことのできなかったアリサは、蒼はもうSNSで勇気とコミュニケーションを図ることだけでなくライブに行くこともやめたのだろうと推測し安堵していた。

―― 

 総合病院の精神科病棟の廊下で足音が小さく反響する。
 その足音は病室の前でいったん止み、静まり返った室内へと進んでいく。個室のベッドには誰も寝ておらず、ベッドサイドのテーブルには瑞々しさを保ったガーベラの花が生けてある。病室に入ってきた人物は個室に備え付けられた流し台へと手慣れた様子で花瓶を持って行き、抱えて持ってきた花束の包装紙を剥がすと、新たにガーベラを生けた。

 「ガーベラの花言葉は希望なんですよ」と前に蒼はライブハウスでその人物に話したことがあった。曲の歌詞について感想を述べた後であった。

 病室に入ってきた人物は、新たにガーベラを生けた花束をサイドテーブルに置き直すと、ベッドテーブルの上に開き放したままになっていたノートパソコンの画面を見る。そこには蒼が書いている手紙形式の小説の文字が映っている。

「アリサちゃんへ。アリサちゃんは今もアイドルとして頑張っていますね。私は、花束の配信の後も何度も何度もアリサちゃんからSNSで怖い目に遭わされて、いまこの文章は総合病院の精神科入院病棟の病室でノートパソコンを使って書いています。

 アリサちゃんがファン全体に向けてカバー曲を上げたかに見せかけて歌っていた『あいつをどうやって殺してやろうか どこかでずっと猫が鳴いてた』という歌詞の曲がときどき幻聴のようにして聴こえてきます。

 勇気さんが黒猫のイラストを描いてSNSに上げた時にアリサちゃんが『ラテかあいい』『ラテかあいい』と、私に伝わるように『かあいい』と表現して犬の画像を連投したのを見て『人間ってこんな風に壊れるんだ』と思った時の怖さも忘れられません。

 それでも窓の外の青空が私には綺麗に見えます。ベッドサイドには花瓶があって、花が飾ってあります。私が病院を出られたらやってみたいことがあります。私は私の名前「蒼」名義で小説を出版したいです。私は読者から花束が……

 アリサちゃん、ごめんなさい。

 花瓶の中の花束は、勇気さんが毎日お見舞いに来てくれて、枯れる前に持ってきてくれるものです。身長に対してコンプレックスを持っていて、私のSNSだけでなくブログも読んだアリサちゃんは私の知識量に対しても何か思うところがあったでしょう? いつまでも私はアリサちゃんから羨ましがられる側で、アリサちゃんはいつまで経っても何をしても私を羨む側の人間です。

 妬みの感情を誘発してごめんね。

 蒼より」

 花束を持ってきた勇気は窓に近寄り窓越しに空を仰ぎ見る。そこには確かに青い空が四角く切り取られていた。

 じきに、蒼は病室に戻ることだろう。

(了)

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