コルタサル「奪われた家/天国の扉 動物寓話集」感想

アルゼンチンの怪奇小説家、フリオ・コルタサルの短編集です。南米文学は難解、というイメージが強かったのですが、たまたまに手に取ったらとんでもなく面白かったので、中でも気に入った「奪われた家」と「動物寓話集」について感想を書こうと思い立ちました。

1.奪われた家

タイトル通り、奪われた家の話ではありますが、むしろそれは本筋ではなく、家を奪われる、というストーリーから垣間見える兄(語り手)と妹(イレーネ)の近親相姦的、同胞間恋愛的な関係が目を引く作品でした。

かつては大家族で住んでいた家に、一族二人きりになっても住み続ける四十代の兄と妹。午前中のほとんどは掃除に費やされて、残りの時間、妹は編み物をしたり、兄は本屋に行ったりと好きな時間を過ごしています。

明示されない『何か』によって家を奪われていく兄弟。まずは半分。そして最後にはすべて。ラストの描写は躍動的で、妹の手に握られた編み物の先だけが家の中に残されて、結局編み物全体を捨ててしまう場面など、心に残りました。

近頃では、資材がいい値段で売れるというので古い家はどんどん取り壊されている。 (p10)
外出したついでに僕は本屋に顔を出し、フランス文学の新刊はないかと探してみるが、いつも空振りに終わった。1939年を最後に、アルゼンチンには何一つ面白い本は入ってこなくなった。 (p12)

と、合間合間にさりげなく語られる、アルゼンチンの文化的貧困も、第二次世界大戦中らしい不穏な話だなあと感じます。わざわざ「1939年を最後に」、と年代を限定しているのは(奪われた家は1946年に発表)、単に第二次世界大戦中だからなのか、それともコルタサルの政治的主張(反ペロン政権)の現れなんでしょうか。解説でも、少しずつ支持を広げて最終的に国全体を乗っ取ったペロニズムの比喩と解釈されることが当初からよくあり、コルタサル自身もそれを容認していた、と書かれています。

アルゼンチンは第二次世界大戦最終局面の1945年まで戦争に参加せず(もともと枢軸国寄りだったが最終的にアメリカの圧力で連合国側として形だけ参戦)、戦争中に牛肉などの輸出を行ったことによりどちらかといえば富裕国だったようなんですが、第二次世界大戦終盤から徐々に台頭していったポピュリズム的政治家、フアン・ペロンによる外国資本の排除を行ったことで、外貨を使い果たし、食糧輸出もアメリカやカナダの増産で不振となり、徐々にインフレとなっていったようです。反知性的なポピュリズム集団であるペロシとその支持者(ペロニズム)を、貧しいながらも海外文学を好む青年であったコルタサルは嫌悪していたようです。

ストーリーのほうに戻ります。語り手は兄なんですが、自分たちの事を”物静かで素朴な夫婦のようになったこの兄妹”と評してみたり、家について話し始めたのにいつの間にか妹の編み物の話へと脱線したりと、やや近親相姦的なほのめかしがあります。家の裏半分ほどが奪われた中盤以降、居心地が良いからといって妹の寝室で過ごし始めるのとか、寝室は別々だけど沈黙に包まれた家の中ではお互いの寝言や寝返りもわかるというのも、やっぱり近親相姦的ですよね。

兄が妹をどう思っているのか、明確な表現はありませんがいとおしいと思っているのは明らかで、特に編み物をする妹についての描写によく表れています。銀色のウニにも似たその両手、とか、何本も針が行き交い、床に置かれた一つか二つの籠の中で毛糸玉が絶えず、動き回る、と、なんともユーモラスで可愛い表現がふんだんに使われています。

一方で、気になったのはこの部分です。

確かに、世の中には、何もしないでいるための口実に編み物を使う女もいるだろうが、イレーネは違って、冬用のトリコットや僕の履く靴下、自分で使うカーディガンやベスト、そんなものをいつも必要に迫られて編んでいた。(p11) 
時には、いったんベストを編み上げた後で、何が気に入らないのか、あっという間に解いてしまうことがあり、そんなときには、籠にたまっていく毛糸の束が数時間前までの形を失うまいと抵抗しているようにみえて、何ともおかしかった。(p12)
編み物が無ければ、イレーネはいったい何をしていたことだろう。—中略—ある時、何の気もなく楠材のチェストの一番下の引き出しを開けてみると、白、緑、薄紫、色とりどりのショールがナフタレンとともにまるで商品のようにびっしり並んでいた。いったい何のつもりなのか、イレーネに聞いてみる勇気はなかった。(p12)

ちょっと引用が長くなってしまいましたが、この部分、矛盾していますよね。妹は必要に迫られていて編み物をしている。何もしない口実に編み物を使っているような女とは違う、と言っておきながら、妹は編み物のほかにすることが無いわけです。兄による妹の美化と、呑気な無理解さが示唆されているのかなと思います。
まあ、こういう兄だから易々と家を乗っ取られてしまうんでしょうか。

2.動物寓話集

この短編集の最後に収録されている話です。この本、他にも動物をテーマにした話が数話あるので、それを合わせて動物寓話『集』なのかな、とも思うんですが、詳細は不明です。小学校低学年ぐらいと思われる、喘息持ちの女の子イサベルは、夏休みを親類のフネス家で過ごすことになります。

まずは序盤から引用させてください。

母とイネスは、彼女など口実にすぎないとでもいうように、もっとずっと向こうを見つめているような雰囲気だった。それでも二人はイサベルを見ていた。
「私としては、行ってほしくないのよ」イネスは言った。「トラのことなら、しっかり見張っているから大丈夫でしょうけど、あんな寂しい家で、遊び相手もあの男の子だけじゃ……」
「私も本当は嫌だわ」
母の言葉を聞いてイサベルは、自分が夏休みをフネス家で過ごすことになるのだと、滑り台の上に立った時のようにはっきり直感した。(p170-171)

これは、フネス家行きが決まった時の母とイネス (親類の女性なのか、家政婦さんまたは家庭教師なのかは不明) のやり取りなんですが、なんとも子供から見た描写だなー!と読んでて感動しました。
どう言ったらよいのかわからないのですが、幼い子供について大人が何か決めるときってこういう感じだと思いませんか?
二人とも嫌なら行かせなければいいのでは??と思っちゃうんですが。
作品とは関係ないですけど、大人って子供の理解力への配慮がかなりおおざっぱというか、同じ人でもその時その時で自分に都合よく、「これはわかるだろう」「これはわからないだろう」と恣意的に決めてますよね。

こういうわけで、イサベルは列車でフネス家まで旅立ちます。ここ、まさかの一人旅で、ちょっとびっくりしました。

フネス家の構成は、遊び相手の男の子として挙げられていたニノ(イサベルと同じくらいの年代か、すこし年下?)、ニノの父親で書斎にこもりがちなルイス、イサベルの叔母にあたる優しい女性のレマ、癇癪持ちの男性ネネ、の子供1人大人3人です。そして忘れてはいけないのが、トラ。トラって名前?何かの比喩?って思っていたのですが、これは読み進めないと明かされません。
トラ自体は一度も描写されないんですが、フネス家の人々は家の中のどこにトラがいるか常に確かめてから行動し、トラがいる部屋は立ち入り禁止になりmす。常に親方と呼ばれるドン・ロベルトや農夫たちからトラの居場所を聞いて、家族のうちの誰かが、他の全員に伝えるのです。

イサベルとニノは、虫を湧かせて顕微鏡でみたり、植物標本を作ったり、薄いガラス板でアリの巣の標本を作り、中で二種類のアリを戦わせたり、と、ものすごく小学生の子供らしい夏休みを過ごします。陰鬱なフネス家に送られ、母とイネスに見捨てられたかのように感じているイサベルは、優しい叔母のレマになつきます。

コルタサルの小説の特徴として、登場人物の紹介をほとんどされず、最初は誰が誰だかわからないまま、お互いのセリフや描写などから推測していくしかないという、のがありますが、この話は特にそれが顕著で、フネス家の人間関係の把握が読解のキーになると思います。

具体的に言うと、レマの結婚相手がルイスなのか、ネネなのか、名言されていないんですよね。あと途中からイサベルが母に向けて手紙を書き始めてそれが地の分と濃淡ありつつ混じりあっているので、どこまでが本当の話でどこまでがオブラートに包まれた手紙の内容なのか、っていうのもかなり分かりづらい……。

また、冒頭の引用で「あんな寂しい家」と評されていることや、「イサベルがフネス家に送られたのはニノが夏を陽気に過ごすための遊び相手が必要だったからだ」という描写があることから、フネス家で最近死人が出たのではないか、と思うんですが、それもはっきりしません。

レマの結婚相手はルイスだと思うんですが、そうすると、普通に考えればニノの母親はレマ、ということになるんですが、それにしてはニノとレマの間にちょっと距離があるのも気になります。仲が悪いわけではありませんが、そこには作られた仲の良さ、のようなものがあり、①「義母と息子」または②「叔母と甥」のほうがしっくりくるんです。(これを一番強く感じたのは、ニノがレマの前では格好をつけたがるという部分ですね。)
①だとすると、ニノの母は亡くなり、レマが後妻としてルイスと結婚した。②だとするとニノの母は亡くなり、ネネと結婚しているレマが叔母としてニノやイサベルを可愛がっている、となります。
次の段落で書く、レマとネネの関係を見る限り、①なのかなと思います。

つづいて、レマとネネの関係です。イサベルはある日、レマがネネにコーヒーカップを渡した際に、ネネがレマに指を絡めているのを目撃します。イサベルはそそっかしいネネがレマの指まで取ってしまった、と解釈してるのですが、明らかにネネからレマへの性的なアピールです。また、レマとニノ、イサベルが楽しく遊んでいるところにネネが怒鳴り込んで、イサベルに乱暴しようとし、ニノとイサベルがが泣き出す——が、夕食時にルイスにはそのことを言わない。なぜならネネが黙らせているから、というシーンもありました。
極めつけが、ネネがイサベルに「レモネードを持って来いとレマへ伝えろ」と言付けを頼むシーン。イサベルがレマにそれを伝えると、レマは、イサベルがレモネードを持っていくよう頼みます。

用件を伝えに食堂へ戻ると、レマはためらっているようだった。
「ちょっと待って。今レモネードを作るから、あなたが持っていって」
「でもネネは…」
「お願い」
イサベルはテーブルの脇に座った。お願い。カーバイドランプの下で虫の大群が旋回しているのが目に留まり、「お願い、お願い」と繰り替えしながら、何時間でも宙を眺めていられるような気がしてきた。レマ、れま。大好きなレマ、その底なしの悲しみに満ちた声
(中略:レマの頼みを聞き入れてイサベルがレモネードを持っていきます)
「なんであいつが持ってこないんだ。お前は上で寝ていろといっただろう」
だが、愚かな答えしか思いつかなかった。
「よく冷えてるわ、ネネ」
そしてカマキリのような水差し。(p193-196)


上記のシーンから、ネネはルイスに隠れてレマを暴力的に誘惑しようとしている(というか、関係自体はもう持っている)ことが分かるので、やはりレマとルイスが夫婦で、ネネはルイスの弟なのでしょう。(そしておそらく、レマはルイスの後妻でありニノの実母ではない)

夏休みも終わりに近づいたある日の昼食後、イサベルは、家族全員がいる前で「(トラは)ネネの書斎にいる」と言います。しばらくしてネネが(自分の書斎が使えないため)読書室へ向かった後、彼の叫び声が聞こえます。
「トラは、ネネの書斎にいるっていったじゃないか!」
レマは叫び声のほうに向かうこともなく、イサベルを抱きしめ、感謝のような、言いようのない共感を漏らします。

この、子供らしい空想的な語りを残しながらも、イサベルが一気に精神的な成長を遂げ、男性優位主義的な南米社会における女性同士の連帯へ組み込まれ、最終的にネネを死に追いやるシーンは、読んでいて本当にぞっとします。最初の引用シーンでは母とイネスの連帯に若干の嫌悪感を示した、可愛くて無力な女の子だったのに……。

コルタサルが自ら男性でありながら、短編の端々にこうした女性親族間のつながりを重視し、しかも巧妙に描写できたのは、自身の父親が出奔して行方不明になってしまい、その後、母と妹を支えなくてはならなかった、という経験も反映されているのでしょうか。第二次世界大戦後、留学生としてフランスへ向かった彼は、留学期間を終えても母国に帰ろうとはせず、生涯をフランスで過ごしたそうです。

3.終わりに

素人が書いたただの感想文をここまで読んでいただきありがとうございます。コルタサルの作品は、物語の中に幻想を混ぜることで、より生々しい人間の描写が可能になっているのかな、と思います。引用はすべて光文社古典新訳文庫 寺尾隆吉訳の「奪われた家/天国の扉 動物寓話集」から行いました。解釈のために感想を書いたところもあるので、もし間違いや読解間違いなど気づかれた方がいらっしゃったら、コメントいただけると嬉しいです。また、引用したことになにか問題があれば記事を削除しますのでご連絡ください。

この記事が参加している募集

読書感想文