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小噺「あなたが死んでしまった夜に」

人生で初めて、僕は花をひとつ、手折ってきた。

「こういった時」に何を手土産にすれば良いのかも分からず、起こってしまった現実を受け入れられないまま、「とにかく行かなくちゃ」と走り出した僕の頭の中で、こだました花の名前。以前何回か聞いたことがあった。

「私、たったひとつだけ好きな花があるんです。小さな頃からずっと好きだった花」

あの頃は確か、恋人だった相手にもまだ一度も貰ったことが無い事も添えて話してくれていた。「春に咲いて、その鮮やかさに必ず目が奪われる筈なのに、あんまり好きって言ってくれる人がいないんです」そう小さな唇を尖らせて話していた様子が目に浮かぶ。
女性の花好きは今に始まった事じゃない。僕だって、過去に付き合っていた女性に花をねだられた事も少々ある。その度に「どうせ枯れるのに」と思いながら、渋々贈っていたーーのを、覚えている。
僕にとっては 「どうせ枯れるだけの花」に対して、女性の「今自分が好きな相手から贈られた花」の価値は随分と違う…と言うよりは、好きな相手が、自分の好きな花を、と言うのが重要な点なんだろう。花ならば何でも好きな訳では無い。嫌いな匂いの花もあれば、好きになれない容貌の花もある。どんなに好きな相手からでも、喜べない贈り物だってある。ならば少しでも相手を喜ばせようと、「どうせ」を思いながらも相手を思いながら花を贈っていた僕は、きっと、恐らく、間違ってはいなかったと思う。

目的の場所に着く頃には、手の中にある花の茎はある程度僕の体温で温まってしまっていた。手折る直前までは元気に煌めいて咲いていた筈の花も、自らが萎れる未来を理解しているかのように頭を垂れている。
仕切り直すように口から大きく息を吐く。

僕の前で白いの花に埋もれて眠る君の、まだ生きているような表情に思考が追いつかない。「現場」は惨たらしいものだったと周囲では囁かれている。それなのに、まるでさっき眠りに落ちたばかりのような穏やかな表情をしている君だけが、まるで現実にそぐわない。本当に眠っているようだった。
また直ぐに薄っすらと目を開いて、いつものように楽しそうに目を細めて笑う君の表情が瞼に焼き付いているのに、君はもう息すらしていない。おしゃべりもしない。僕を見る事もない。僕が持ってきた花を喜ぶ事も、ない。
眠る君の顔のすぐ隣に、艶やかな花を置く。
周りの白い花の中で唯一鮮やかなそれは君の最後を彩って、君がこの世から形が無くなる時も、傍にいる。


君の顔を見た後には、ひたすらに僕の頭の中でこだましていた筈の花の名前は忘れてしまっていた。
ただ君がその花を好きだった事と、僕が君を好きだった事しか、もう僕には思い出せない。



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