見出し画像

小噺「あの夏の雨の日の神様よ」

たまに会えるその人はいつも言った。
「私を早く忘れなさい」と。

雨が降った日の夕暮れ時。近くの山のちいさな、あまり人の立ち入らない滝のある場所に行くと、いつも着物を着た男の人が近くの岩場に座っている。
初めて見た時は仰天してしまって、思わず足が有るかをまじまじと確認した。そんな私を見て少しだけ笑いながら「足はあるかの」と着物の裾をちらりと捲って見せて呉れた。それ以来、その不思議な雰囲気が気になって、雨が降ったら其処に通うようになっていた。

その人は雨が降った日は其処に必ず居る。
何故かを聞いてみたかった。けれど聞かなかった。
聞いてしまったら全てが終わってしまうような気がしていた。
雨が降る度に足繁く其処に通っている内に、少しは打ち解けて、話も幾らかするようになった。けれど、その人も私も、お互いの名前は知らなかった。

「おまえは私を詮索しないんだね」
「聞いて欲しいなら聞くけど」
「いや、良い。知らなくて良い事もある」

そう首を振るその人に、それ以上を聞いてはいけない気がしていた。

その日は朝から土砂降りの日だった。
雨の日には会いに行こうと何となく思っていたものの、あまりの雨量に少しだけ怖気付いた。ブラウン管からは『稀に見る異常気象が』だなんて声も流れている。でもいかなくちゃ、と思った。これもまた「何となく」だった。
びしびしと雨粒が傘に打ちつけて来る中、靴を濡らしながら歩く。もう靴の中にまで水が浸透して、歩く度に靴の中がぐちゃぐちゃと音を立てた。いつもの山の入り口も、随分と暗くなっていた。その人はいないかな、と思いながらも足は止めずに、山裾を歩いて行く。大きな雨粒が傘を伝って地面に落ちて行く。時折風が大きく木々を揺らす様は正に嵐のようで、滝まで辿り着けないような気さえした。それでも行かなくちゃいけないと思った。いつしか滝を目指す私は、縋るような心地で歩いていた。

滝の入り口前、ほんの少しだけ木々が開けた場所に、その人は佇んでいた。
何時もなら滝の傍で腰掛けている筈なのに。
私が来るのを分かっていたように此方を見て立っていたその人は、声が交わせる距離まで歩み寄ると深い息を吐いた。

「やはり来たね」
「うん、だって、雨だから」
「来てしまうと思っていた。だから私はおまえに、私を早く忘れるように言っていたんだよ」

それはまるで小さな子を窘めるような、少しだけ厳しい口調だった。そしてもう一度深く息を吐くと、「よく聞きなさい」と私の目を見て言った。

「今直ぐ来た道を引き返して、帰りなさい。それから二、三日は雨が降ろうと絶対にこの山に来てはいけないよ」
「なんで?」
「おまえという子どもが、生きるために」
「ここに来たら、死んじゃうの?」
「私が居る限りは守ってやれる。だから早く、疾くお帰り」
「待って、ねぇ、また会える?」

最初で最後のその問いに、返事は無かった。
私を追い返すと、見えなくなるまで私の姿を見送るその人の姿を後ろ目に見ながら、「今日は機嫌が悪かったのかな」なんて呑気な事を考えながら悪路の中家路に着く。
我儘は言わなかった。
あんなに言葉を念押ししてきたことは今までに一度たりとも無かったから、ただ純粋にその通りにしようと思った。

次の日テレビで、夜中に近くの山で大きな土砂崩れがあった事が報道されていた。
あの山だった。
それから山一帯が念のため二ヶ月立ち入り禁止になり、二ヶ月経った雨の日にその山に行ってみたら、あの滝へと続く道ごと、ちいさな滝は土砂崩れに埋もれて無くなってしまっていた。その人に会った最後の場所だけが其処に残っていた。

あれから今までずっと、その人には会えていない。
大人に成った今でも忘れられずに、呼べる名前も知らない癖に時折山まで行ってしまう私を見たらまた怒るのかな。
夢でも良いから、また会えたらいいのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?