ねこ、障子
生まれようとしたとき、声が聞こえた。
「火? 雷? 水?」
優しく語り掛けるような女性の声だ。
私にはそれが、力を与えてくれることを意味するものだと分かった。
火は祓う力。雷は裁く力。水は打ち消す力。
選べ、ということらしい。
「猫が開けた障子の穴を即座に戻す力が欲しいです」
それでさんざん苦労したのだ。結局うちの障子は穴だらけだった。穴だらけの障子を残し、私は死んだ。
風呂後の髪を即座に乾かす力、ずっと座っていてもお尻や腰が痛くならない力、という手もあった。だがやはり猫障子だ。
「うーーーーん」
と声の主は唸っていた。
そのままフェイドアウトしていった。
生まれた私は女で、住まいはマンションの15階。和室はない。障子にも縁がない生活だった。
六歳の頃、母と選挙でコミュニティーセンターに行ったとき、和室に障子があったのでパンチしたのが初めての出会いだ。
そうして穴の開いた障子を撫でる。まるで死者の瞼を閉ざすように、やさしく。
しかしいくら撫でても、それは穴の開いたままの障子だった。
もちろん母にはこっぴどく叱られた。
それでよかったのだ。
もし治せていたら、それはそれで大事になっていただろうから。
なぜ治せなかったのか。
猫の仕業でなかったからだ。
まず前提として猫と障子の両方が必要なのだ。
さらにそこからその猫が障子に穴をあけることによってはじめて、私の能力の発動条件が満たされるわけである。
うーーーーーん。
その条件が満たされたのは、私が結婚した時だった。
夫はスーパーの店長で転勤が当たり前だった。
何度かの引っ越しの時、一軒家に住もうと家を借り、ちょうど市役所で猫の里親募集があったのでもらってきた。
でもその猫はとても大人しい猫だった。
生まれて一年も経っていないのに、活発さのかけらもない、ずっと日向で寝ている猫だった。
次引っ越したときこの猫はどうするんだと、あまり乗り気でなかった主人も気に入ったようだ。私だってそうだ。
でも、足りない。
運命の時はふいに訪れることにある。
私がともだちと会って夕ご飯を食べて帰ってきたとき、和室の障子に穴が開いていた。
ちょうど開け閉めする場所のところで、手の先が入ってしまったみたいな穴だった。
夫は風呂に入っていた。
私は周りを確認し、それからその穴に手を近づけて一撫でする。死者の瞼を閉ざすように。
すると、元通りきれいな障子が現れた。
本当だったんだ。
30年越しの能力覚醒。
感動もひとしおである。もちろん、色々後悔めいたものはある。
純粋に雷の力をもらっておけば、今頃私は魔王としてこの国に君臨できたかもしれないとか。
でもいいのだ。この世にはやはり科学では説明がつかない何かがいるのだ。
それを確信できただけでも儲けものである。
今日はめでたい。風呂上りに酒でも飲もう。
そんなことを考え、夫と入れ替わりに風呂に入った。
バスタオルで髪を拭きながら和室に戻ったとき、夫が言った。障子を指さしている。
「これ治してくれたんだね。ありがとう。間違って開けちゃってさ」
「え?」
と私は言った。
「君がなおしてくれたんじゃないの?」
夫に聞き返される。
「いや、私わたし」
「だよね、ありがとう。でもずいぶんきれいに治せるね」
「いやそうじゃなくて、猫が開けたんでしょ」
「いや、僕だよ。ちょっと滑っちゃって」
私は障子に穴をあける。
「あーーーー」
と夫が言ったが気にしない。
そのまま撫でてやる。
でもそれは治らない。穴は穴のままだ。
私は夫に言う。
「ちょっと穴あけて」
「なんで?」
「いいからやって」
「いやだよ」
「いいから」
伝わったらしい。おそるおそる、彼は人差し指を障子に突き刺した。
「これでいいの?」
「見てて」
私はその穴を撫でる。死者の瞼を閉ざすように。
手がどけた瞬間、それはきれいな障子に戻っている。
「え?」
と夫が言った。
「私は猫が開けた障子の穴を治せるの」
と、私は言った。「その証拠に」
今度はさっき自分が開けた穴を撫でる。もちろん穴は穴のままだ。
「ほら、私があけても穴はそのまま」
変な空気が流れた。浮気の現場写真を見せたような空気に似ている。そんなこと今世でしたことないが。
「ちょっとトイレ」
背を向ける夫。
「待て」
私は呼び止める。
「猫なの?」
「なに言ってるんだ。人だよ」
「……」
「……」
夫は、猫らしい。
彼もまた、生まれるとき声が聞こえて、与えられた選択肢にない人になりないと答えた。
「じゃあ人じゃない」
「いや、猫なんだ」
よくわからない。
「確かに言葉も喋れる。これまでだって人並みに成長してきた。仕事だってしてるし、なんなら店長だ」
でも猫らしい。
「魔改造されたって、そういうこと?」
「いや、難しいな。改造とかではない。とにかく僕は猫だ。最終的に猫なんだ。現に君の能力がそう答えを出してくれた」
まあ、たしかに。いや、だが猫があけた障子を私は一度も直してない。
そこでソファで寝ていた猫を持ってきて、前足を障子に突き刺した。
そのあとでおもむろに、そこを撫でる。死者の瞼を閉ざすように。
だが消えない。どういうことだ。
「猫と言いつつ弓子さんが開けたからじゃない?」
と、夫は猫らしからぬ冷静な分析をしてみせる。
結局、すべてが分かることはなかった。
分かったことと言ったら、私は夫が開けた障子の穴を即座に治せるということと、その夫が自らを最終的に猫だと確信しているということだ。
謎が増えた。
布団を敷いた。
「前世はどんなだったの?」
暗い部屋で私は夫に尋ねた。
「僕は猫だ。どこかの繁華街にいて、料理屋のポリバケツを倒して、ゴミを漁るのが得意だった。君は?」
「猫を飼っていたわ。障子を見ると穴をあけずにはいられない」
「それで、その能力?」
「そんな単純な話じゃない」
悔しい。その通りだった。
2人でもっと前世の話をしたかったが、私はそれで話を打ち切った。
翌日いつも通り一緒に朝食を食べ、夫は仕事に出かける。
掃除をしようと和室に行くと、障子はぼろぼろの穴だらけだった。
私は障子をまんべんなくさっと撫でてやる。死者の瞼を閉ざすように。
障子には私が開けた穴と、私が猫を使って開けた穴だけが残された。
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