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旅の記憶、これからの旅|TRAVEL LIGHT #0

そろそろ旅に出たくなったけれど

長い旅に出る理由を考えたとき、出ない理由の方が多くなったことに気づく。
そもそも、仕事がある。世の中にはいろんな働き方や生き方がある、とは言っても、今の仕事しか知らない自分には、会社をやめることは遠い夢のように思える。

家と会社を往復してその周辺をうろうろする平和な暮らし。都内のマンションで一人暮らし。商店街の近くに家を探して、ワクワクして買った大きな冷蔵庫は、ほとんど空っぽで、映画をじっくり見るつもりだったテレビの前のソファにも座らず、スマホを見ながらベッドに横たわる。

休日にはおいしいものを食べて、たまには温泉にだって行ける。もし家族が増えても、お金には困らないだろう。けれど、なぜだろう、何かが引っかかっている。そう思いながら、どこにも行けないまま20代をコロナ禍とともに終え、気づけば、30歳を過ぎていた。

いろんなことがうまくいかなくなり、入社した頃以来の胃炎になった。常に感じる、みぞおちあたりの石のような重み。朝は考えごととともに目覚め、すでにぐったりしている。歯を食いしばっているのか咬筋が張って顔は四角い。瞼は重い。鏡の自分の顔を見て考える。これは歳のせい? こんなものなの? 

ぼんやり停滞していた頭が急に切り替わる。心が解放される時間が必要だ、このままでは石になってしまう。足りないものが何かはもう知っている。自分にとって何より大切なもの。それは旅だ。

心が動く瞬間は、いつも旅の途中だった

学生の頃は、何かに突き動かされるように旅に出ていた。初めて一人で海外に行ったのはドイツ。兄に借りたパックパックを背負って、緊張した面持ちで飛行機を降りる。足元は、なんとなくドイツっぽいからと履いて行った編み上げブーツ。そういう靴は保安検査で脱ぐことになるなんてまるで知らなかった。

言われるまま靴を渡して不安な気持ちで待っていると、ベルトコンベアから出てきたのは、片足のブーツだけだった。隣にいた大柄なおばさまが、「Shoe?」と言って笑った。“s“の不在。険しい表情に見えた空港スタッフの人も笑って、私も思わず吹き出した。

観光名所にあまり興味がなかった私は、ベルリンのミッテやクロイツベルクを毎日散歩して、住人のような気分で過ごしていた。トルコ移民や、ヨーロッパ中からやってきたアーティストや学生が多く住み、小さな書店やカフェ、アート系のショップがひしめき合っている。

街は混沌としながらも、活気に溢れていた。トルコ人しかいないお店で朝ごはんを食べながら、私は思った。世界を旅して、気に入った場所に住もう。思ったというか、そう決めた。

それからというもの、ユーレイルパスでヨーロッパ中を周遊したり、アジアのあちこちで貧乏旅行をした。旅と旅の合間は、いつも計画を立てていた。

一番よく思い出すのはインドのことかもしれない
シク教の聖地に座ってただ一日を過ごした

旅をしていると、何もない一日もある。常に楽しいことばかりでもない。でも、目を閉じて考えてみる。人生で心が動いた瞬間はいつも旅の途中だった。忘れないでと、ウミガメの置物をくれた海辺の田舎町の青年。誰もいないアルプスを歩いていると聞こえてきたカウベルの音。離島のダイビングで聞いたクジラの声。

記憶にあるのは美しいことだけではない。デリーの外れで夜行バスを降ろされ、まだ暗い朝方に野犬に囲まれたこと。ニューヨークのチャイナタウンで具合が悪くなり飲茶を吐いたこと。タイの島に行く船で海が荒れて落ちそうになるほど揺れたこと。長距離列車が止まってぎゅうぎゅうのコンパートメントで徹夜したこと。それらのすべてが忘れられない記憶として、私を支えてくれている。

身軽な旅に出よう

社会人になってから、友人と数日程度の旅行に行くことはあったけど、何か物足りないような気がしてしまっていた。別の楽しみ方があるに違いないと、評価の高いレストランに行ってみたり、リゾートに泊まってみたりもした。

いいこともたくさんあったはずだ。でも、だんだん自分のことがよくわからなくなった。心が動く瞬間がなくなり、寝て起きるだけになっていった。どうせ楽しめないからと、いろんなことをやめて、引きこもった。旅が必要だとようやく気がついて、旅の写真を見返したり、世界一周をした人の旅行記を読んだりした。重たい瞼が開いたような、何かが始まるような予感がした。

長い旅。それを考えるのはとても楽しくて、ちょっと大変だ。今までだったら、かすかな絶望とともに、そこで思考は止まっていたけど、どこかで目にした、言葉が浮かんできた。
TRAVEL LIGHT 少ない荷物で身軽に旅すること
距離や日数だけの問題じゃない。旅をするように生きていれば、すぐ近くにだって、心が動くことがあるはずだ。もう何年もしまいっぱなしのカメラを取り出して、この文章を書き出した。

これは、石を抱えた私が、いつか長い旅に出ることを計画しながら、心と体を軽くする“TRAVEL LIGHT“を実践していく記録です。


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