話のきき方を変えたいと思った

キーワード
考えの偏り、判断聞き、共感聴き、会話の操縦桿、会話のシステム化

 最近になってから昔の出来事を思い出してその時にした会話の内容を吟味することが増えた。思い出す出来事は大体3年より前で、当時は納得いかなかったけれど今となっては当てはまっているなと思うものが多い。「人生に絶望するのが早いんじゃない……?」とか、「今はどうしようもないかもしれないけれど、潜在的には能力があるから数年後には<生活保護を抜けて>大学に行けてるよ」とか。気休めにもならないと思っていた言葉が、今となっては同意するものになったりその言葉通りになっていることを思うと当時の自分の考えは偏ったものだったのだろう。

 昔からの傾向で自分の考え方のパターンがある程度自己中心的になっていた節がある。なんなら今もそうだ。自己中心的というのは、自分を第一に考えると言うよりは自分の考えに固執する場合が多かったことを指す。そもそも、前者のような意味だったら自殺未遂もしないし自傷もしていない。私の考え方のプロセスは大体こうだ。物事を考えるときにそれに関する情報をある程度集めてから、そのことに関する対立する意見を自分の中で作ってみる。情報を使ってもっともらしい説明ができる方に7割くらいの比重を置きつつ、頭の中で討論をして意見を作っていく。最終的な結論に至っても5%くらいは反対意見の有用さを頭に置いておく。これが私の理想的な考え方の進め方だ。でも、最近はそれほど真剣にものを考えられることは少なくて、最初から答えありきで情報を収集するようになってしまった。余裕のある時は知り合いを使って反対意見を出してもらったりはしているが、それもあまりできていない。最初に考える対立した意見も結局は自分の意見であるわけだから、考えが偏るのも無理はない。

 そんなわけだから人の話を聞く時には自分の意見と異なっているのかそうでないのか。異なっている時にはどこが異なっていてどこに反論すれば主張を弱くできるのか。同じ時にも違う論拠を使っていないかを判断しながら聞いている。でも、こういう聞き方をしていると感情を置き去りにしてしまったり経験からぼんやり意見を作っている場合の主張を受け入れられなくなってしまう。それに、相手に何を言うかを考えながら話を聞くことは相手の意見への解像度が低くなる。そうなると反論も効果的なものができなくなったり、自分の意見が相手の意見によって変化する余地が少なくなる。

 経験や感情に基づいた主張も漏れなく汲み取るためには共感しながら聴く必要があるなと、最近になって気がついた。それは昔に聞いたこの手の意見が最近になって同意しうるものになっているからだ。異なる意見によって自分の意見が変わるとしても早い方が良い。相手の意見をトレースしながら聴く。自分の中で考えを巡らせながら聞くのではなく、まずはどっぷりと相手の意見を受け入れながら理解を深める。それを有用であるかそうでないのかを判断するのは後でいい。むしろ、後でじっくり噛み締めればいい。その意見を自分の中に一度受け入れるからこそ、自分にとって大事だと思った部分は残るのではないか。太宰治の「正義と微笑」の中に出てくるカルチベートの一節のように、殆どを忘れてしまっても自分の中に何かに砂金のように残るものがあれば良いと思う。そのためにはまず受け入れること。それが大事だと思った。

 それから、前々から自分で思っていたことのひとつとして人の顔を覚えられないというものがあった。人を認識するときに何を使っているかを考えたときに、その人と何を話したかが大きな役割を果たしていることが多い。とは言っても自分自身のことは多くの人に話しているから、その話について相手がどのような切り返しをしてきたのかだったり相手の話によって自分の意見がどう変わったかだったりが重要な手がかりになる。だから同じような反応をする人の分類だったり、あまり話す時間が取れない人に関しては20回近く顔を合わせても覚えられない。人の顔をきちんと覚えてきちんと話すことを考えるならば、話を促す質問の仕方を考えられるようになることが大事だなぁと最近よく思う。自分が一方的に話してその反応を探るのではなく、相手に話してもらう方が大事だなと。そして相手のことを理解するために考えの輪郭を顕にするような質問もできるようになりたいなと思う。もちろんそういった質問を受ける方からすれば話すことがストレスになりうるし、軽い話をたくさんする方が効果的なのだろう。でも、これはコミュニケーションの取り方の好みだから、いくつか交えて話すことはあるとは思うけれどお互いに考え続けるような形に落ち着くような気がしている。

 それはそうと最近妹と話したことの中で興味深いテーマがあったからここで共有しておこうと思う。ことの発端は妹が中学校で受けた道徳の授業の内容だった。「人間にとって役に立つ/立たない動物とは何か」や「命とはなんだろうか」というもの。これらの内容についても非常に興味深くお互いの意見を交換できたが、この後の話の進み方が面白かった。命とは何かという問題について、妹は「死ぬまでにあるもの」と答えた。それに対して私は「死をきちんと定義しないといけないね。もし、死を命が終わったものとした場合にループしちゃうから」と答えた。すると、妹は「自分やその周りにある現象に対する理解する営みを止めた時に死ぬんじゃないかな……」と答えた。動物に「理解する営み」があるかどうかがわからないために、動物の命をどう捉えるかという課題が残る。それでも、面白い考え方だと感じた。100%同意するわけではないけれど、ある人間にとってこれが生きることの意味にもなりうるからだ。周りのことをできる限り知りたいという好奇心の塊のような人間の精神が死ぬ時は確かに理解をする営みを終えた時に死ぬのだろう。精神的に。

 妹とはその時に「信頼とはなんだろうか」という話もした。妹は「周りと連携するために必要な期待とそれに応える気持ちのやりとり」と答えた。これも興味深い。妹は続けて「1つのものを過信して信じすぎるのはよくない。いくつも信じる先を用意して分散させる方が安全でいい」とも言っていた。これについては私も昔から思っていたところがあったから、同意した。ただ、私は自身が回避型の愛着障害を疑われるくらいには、人に信じられたりだとか、見返りの求めない愛を与えられることを恐れている節がある。私と同様に相手も信じられるのが嫌なのではないかと思ってしまうことも、しばしばある。だから、100%信じるということは意識的に避けている。必ず異なった意見や説明にも触れてそこにも多少ウェイトを置く感じ。色々信じているようで何も信じていない。昔は0か100かで物事を考えていたけれど、最近ははっきりしないことについても短絡的な答えを求めないで我慢することを覚えてきた。話を聴けるようになろうという思いもこの流れから自然に生まれたものだ。

 妹と話すと必ず言われることがある。それは「にぃにと話すとめちゃくちゃ疲れるんだよね」だ。「話していて刺激的だし楽しいけれど、頭をめちゃくちゃ使わされるから疲れる」とのことだ。なるほど、実はみんなが私にそんなふうに思っている可能性はあるな。もちろん疲れない話し方もある程度心得ている。自分が疲れない時の話し方を、相手に提供すれば良いのだろうから。それは会話の操縦桿をがっちりホールドして着陸地点をあらかじめ決めているような話し方だったり、状況をそのまま実況中継みたいに話し続けるのを聞いて聞き流されるような話し方だろう。でも、片方にかかる負担は半端じゃないし、それを続けようものならそもそも楽しくない会話をする気にならなくて自然に会話は少なくなっていくだろう<そもそもこれは言葉のキャッチボールというよりはドッジボールだから>。片方に話させ続けてそれに乗っかるのではなく、2人して歩いて寄り道しながら目的のない話の進み方こそが1番いいのではないか。雑談なら予想していないような寄り道は大歓迎だし、相手と歩けばどこでも良いだろうから。むしろお互いに話していて、体力が尽きるまで遊んだ小学生の頃のように、頭が疲れ切るような会話。それを最近は求めている。

 ただ、常にそんな会話はできないから、ある程度のシステム化は必要だろう。例えば相手から体験談を聞かされるときは注意深く聞いてその時の相手の体験を追体験するくらいの心構えをした方が良いし、1対多で一方的に話される場合は情報を得られれば最低限は良いと思う。まずは雑なシステムを作って、のちに細かい場面によって切り替えられるように綿密なシステムにすればいいのだろう。読書に関しても興味があるところや物語の描写であったら注意深く読むし、論文の紹介程度だったら内容の理解で良い。知っている知識が出てきたら確認程度に読むかを時間と相談する。

 読書も話を聴くことも自分の外側のものに触れることで、殻を破ること。受動的なhearではなくて能動的なlistenを心がけていきたいなと強く思った。前回の記事でも書いたけれど、人間は最高のメディアなんだから。好奇心をって聴き続ければ世界はもっと楽しい。

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