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「子どもとテクノロジー」の未来がディストピアではない理由――発達心理学者アリソン・ゴプニック教授の見解(既刊『思いどおりになんて育たない』から)

家でデジタルデバイスと過ごす時間が増えた昨今、子どもたちへの悪影響が気になるところです。発達心理学の第一人者であるアリソン・ゴプニック教授は、デジタル技術が子どもたちに与える影響については悲観的になりすぎなくていい、といいます。それはどうしてなのでしょうか。

以下は、ゴプニック氏の著書『思いどおりになんて育たない:反ペアレンティングの科学』(原題:The Gardener and the Carpenter)より、「未来と過去:子どもとテクノロジー」と題された章の全文です。少しどきっとするエピソードから始まる――すぐに種明かしあり――スリリングな論考。少し大きな視点から、私たちが漠然と感じる「テクノロジーへの不安」に向き合い、考えるきっかけになるかもしれません。

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未来と過去:子どもとテクノロジー

著:アリソン・ゴプニック 訳:渡会圭子 
(出典:『思いどおりになんて育たない』)

両親は娘が2歳のとき、そのデバイスを与えた。それはとても洗練されたグラフィカル・インターフェイスを持ち、視神経を通して脳に信号を送り、あっというまに現実とは違うとても魅惑的な世界へと彼女を連れ去った。彼女が7歳になると、それを学校へ持っていき、授業中も机の下に忍ばせて、先生の話を聞かずそれに没頭した。15歳になるとデバイスから送られる光景――舞踏会に入ってくる少女、戦場で死にかけている男――のほうが、思春期の彼女が生きる生活よりもリアルに感じた。周囲のことなど忘れるくらい夢中になり、何時間も動かなかった。その中毒性はきわめて高く、やめられなくなってほとんど徹夜したことが何度もあった。もっと大きくなると、そのデバイスが家じゅうを支配した。その影響から逃れられる部屋はなかった。食べているときもトイレに行くときも、それを持ち歩いた。セックスするときでさえ、デバイスで得たイメージが彼女の頭を占めていた。彼女の子どもの一人が脳しんとうで病院に運ばれたときも、まず頭に浮かんだのは、そのデバイスを持っていかなくてはということだった。何より嘆かわしいのは子どもたちがある程度の年齢になると、彼女が子どもたちもそれに病みつきになるよう仕向けたことだ。

心理学者は、彼女が文字通りそこから解き放たれることはできないことを示した。そのデバイスが視神経に届けば、無意識のうちに必ず取り込まれてしまう。神経科学者は彼女の脳の大半、かつては現実世界を理解するのに使われていた部位が、そのデバイスに支配されることを実証した。

これは未来のテクノロジー・ディストピアの話だろうか。それは違う。実はこれは私自身の話である。このデバイスとはもちろん本であり、私はこれまでずっと、自らその餌食となっていた。デバイスのたとえ話は、最近の親がみんな持っている不安を描いている。コンピュータやインターネットの新しいテクノロジー(iPhone、グーグルグラス、ツイッター、メール、フェイスブック、インスタグラム)は子どもの頭にどんな影響を与えるのか。そして親はそれについて何ができるだろう。

この問題に答える小さな産業が成長し、その答えは災難の予言から夢の世界を夢想するものまで多岐にわたるが、将来を悲観するもののほうが優位である(どんな時代も悪いニュースのほうが人の心をとらえる)。しかし本当に科学的でシンプルな答えは、当然ながら「わからない」である。それは今後も変わらないし、少なくとも次の世代まで答えを出すことはできない。しかしこの問いの底には、もっと根深い問題がある。特定の子と特定のテクノロジーではなく、子どもとテクノロジー一般の関係はどのようなものなのだろうか。

ロマン主義の時代からの長きにわたり、子どもは自然状態に近い生き物で、もともと無垢な存在であると考えられていた。対照的に大人は人工的につくられたもの、新しいテクノロジーや道具を求める。しかし私がここまで説明してきた進化の面からはまったく違った見方が可能である。人の認識力がどう進化したかについて特に広まっている二つの説は、人は物理的道具の使い方がうまくなったためというものと、仲間の人間を扱うのがうまくなったためというものだ。しかしこれらの能力には、物理的なものにしろ社会的なものにしろ、何らかのテクノロジーが関わっている。私たちの大きな脳と長い子ども時代、そしてそれにともなう特有の学習能力は、こうしたテクノロジーの発明と習熟の両方に役立つようにできている。

人間は新しいテクノロジーを発明するだけでなく、それを世代を超えて伝えるようつくられている。他の動物以上に、人間は常に環境をつくりかえている。そして人の脳は、特に若いころの経験によって配線し直され、つくり変えられる。どの世代も子どもたちは親がつくった新しい環境で成長する。どの世代の脳も初期には違う経験をして特有の回路が生まれ、その新しい脳がまた環境を変える。私たちの脳はほんの二世代か三世代で大きく変わる可能性がある。その結果起こるのが、心理学で言う文化的ラチェット効果である〔ラチェットは歯止めにより歯車が片方向にしか回らないようにした機構〕。子ども時代には、人間特有の二つの相補的な能力が発達する。私たちは前の世代から学ぶことができる。観察、模倣、証明を通して、子どもたちは先人たちのテクノロジーやスキルをすばやく学び再現する。テクノロジーの模倣は発明よりはるかに速く簡単にできる。

けれども自分より上の世代をそのまま模倣するだけでは何の進歩もない。そのため各世代が、前世代の知識や専門技術の上に何かを加えていく。ものごとが着実に向上していく(ラチェットのように)のは、前世代の発見を踏み台にできるからだ。このラチェット効果は、子どもと大人では学習のしかたが違うことの表れでもある。大人にとって新しいスキルを学習することは、苦しくて時間がかかり、集中力を要する。子どもは、これまで見てきたように、無意識のうちに楽々と学ぶ。そのため新たな世代は過去に積み重ねられたイノベーションをすぐに自分のものにしていながら、それに気づかないことも多い。先ほどのデバイスの話が私の世代にとって意外性を持つのは、生まれたときからすでに本があったからだ。新しい世代は、意識的にそうした前の活動を変更し、新しいものを考え出す。過去を丸ごとあって当たり前のこととして、未来に向かって進む。

こうした世代ごとの変化が文化的イノベーションの原動力であり、それはテクノロジーの変化にとってとりわけ重要である。しかし世代的な変化はテクノロジーにとどまらない。それらはまたエリザベス一世時代の言葉、ダンス、衣服から、現代の言語や文化までの歴史的な変化のような偶然による変化も生む。新石器時代の器の装飾も、世代が進むごとに変化した。世代的な変化はさまざまな速度で起こるし、時代や場所によっても違う。現在は特に変化が速いように思えるが、変化自体は普遍的でどこでも見られる人間の発達の特徴だ。

子どもがすばやく無意識に学び、文化的情報をどんどん吸収できるからこそ、新しいことを次の世代へと引き継ぐことができる。しかしまた子ども、特に思春期の若者は、テクノロジーや文化の変化の最先端を担うことが多いことを示す証拠もある。

日常的な観察だけでなく体系的な研究でも、子どもたちが言語の変化を牽引していることが示されている。移民の子どもたちは、大人たちがまったく習得できないこともある受け入れ国の言葉を、すぐに苦労なく覚えてしまう。事実、移民の子どもは、親にとって言葉と文化の両方の面で通訳となることが多い。違う言語を話す人が多く集まると、そこにとても簡潔な混合語(ピジン)が生まれるかもしれない。しかし次の世代の子どもたちは、その簡単な意思疎通のシステムを本格的なクレオール語(既存の言語と同じ複雑さを備えた新しい言語)へと変化させる。新しい単語、文法、音さえも、まずティーンエイジャーの間で生まれる。

たとえば疑問文のように語尾を上げる話し方、いわゆる“アップトーク”は、かつてはカリフォルニアの“ヴァレー・ガール”と呼ばれる少数のティーンエイジャーだけのものだった。

アップトークが大衆文化として広まったのは、フランク・ザッパが当時一四歳だった娘と一緒にレコーディングをしたのがきっかけだった。もう30年以上前のことだ。いまやこの話し方は、アメリカの30歳未満の人々の間に広まっている。

私の世代の人は、この語尾を上げるイントネーションを聞いて眉をひそめるかもしれない。しかし通説とは逆に、アップトークは自信のなさや不安ではなく、この世代の地位と力を示す話し方となっている。立場が下の者よりも、たとえば指導教授が学生に、あるいは上司が部下に対して使う傾向がある。

特に思春期の若者の多くは、大衆文化の変化の最先端にいる。19世紀初頭のティーンエイジャーが、ワルツというセクシーで恥ずべきみだらなダンスを最初に受け入れ、同じくらいセクシーで恥ずべき小説という新しい娯楽に夢中になった。20世紀、それはロックンロールとパンク、ヒップホップ、ミニスカート、タトゥー、トラックスーツになった。(私たちベビーブーマー世代が長髪やギターといった、文化的な反抗手段として楽なものを先取りしたせいで、子どもたちの世代にはタトゥーやピアスのような苦痛の大きなものしか残らなかったのは不公平だとは思っている。)文化のイノベーションと伝達は、人間以外の他の動物ではあまり見られない。しかしイノベーションが起こるとき、それを発明するのも広めるのも若い個体であるという証拠がいくつかある。動物の文化伝達で特によく知られているものの一つが、ニホンザルがサツマイモを海水につける行動だろう。それでほこりを洗い流し、よい加減に塩味がつく。その文化の変化が起こるのを記録した科学者がいた。最初にそれを始めたのは第二次性徴が表れる前のメスで、その習慣がまず他の(新し物好きの)幼いサルたちの間に広がり、その後、他のメスたちに広がった。(力の強い年配のオスは決して理解しなかったらしい。)

もちろん、多くの技術的、文化的イノベーションは、高いレベルのスキルに支えられるものであり、大人がつくり出すものだ。しかしその場合でも、新しい物を好む子どもらしい性質によって、そのイノベーションの次世代での使われ方が変わるかもしれない。文化の伝達のパラドクスの一つは、大人はたいていの大人がしている行動をするということだ。私たちは無意識に体制に従おうとする。しかし定義からすると、イノベーションはごく少数の人がすることから始まる。若い人、特に思春期の若者たちのほうが、さまざまな常識的でない行動を受け入れやすいのは事実であり、そのために突飛な発明が保存され伝えられていく。

つまり子ども時代は技術や文化の変化の影響を受けない無垢な期間というわけではない。むしろ子ども時代はそのような変化が集中する時期なのだ。それはイノベーションが内在化する時期であり、特に思春期はそうしたイノベーションが実際に花開く時期でもある。

読む脳

私たちは自分たちの世代のイノベーションを“テクノロジー”と考え、過去の世代のイノベーションはつまらないものと考える傾向がある。しかし私の書斎にある印刷された本や、木でつくられたテーブルは、コンピュータやスマートフォンと同じように、テクロノジーである。少し古いだけだ。

新しいテクノロジーの影響を予測する一つの方法は、すでに受け入れられ、何世代にもわたって使われているテクノロジーについて考えてみることだ。いまこの瞬間あなたは白いページに散らばる黒い記号を目で追っているだけなのに、この本に没頭していると感じている。任意の記号がなぜはっきりとした経験へと変わるのかは、人間の心と脳の最大の謎である。なぜ不思議なのかといえば、読むことが最近の発明であるからだ。私たちの脳は読むために進化したわけではない。

ウェブサイトでセキュリティ対策の単語認識テストを終わらせるたびに、あなたは無意識に、読むということの精緻で高度な技に敬意を払う。最も進歩したスパムボットでも人間のように読めるわけではない。何十万もの文字でできた本の重要性の半分も理解できない。

認知科学では、話す、見る、記憶するといったシンプルな経験は、恐ろしいほど複雑な脳の計算の結果であることが示されている。書いてある任意の記号の連続を思考に変換するには、同じくらい巧妙な脳の作業が必要だ。しかし話す、見る、記憶することが何万年もの進化による変化の結果なのに対し、読むことに関わる同じくらい複雑な計算は、ほんの数千年前に始まった。なぜそんなことが可能なのだろう。私たちは他の目的のためにつくられた脳の部位を、読むために再利用している。しかし私たちは、脳をつくり変え、読むことに特化した部位を新しく生み出してもいる。

私たちが文字として使っている形には、霊長類が物体を認識するのに使う形が表れている。たとえば“Tree”という単語の最初の音を表す記号として、“T”ではなくまったく別の形を使うことも可能なのだ。そして中国の巻物と、印刷されたこの本とには、共通点がほとんどないように思える。しかし実際は、多くの言語で文字として使われる形は、とてもよく似ている。私たちは交差する縦線と横線を組み合わせ、途中に点や丸を挟み込む。

“T”の形は、実はサルにとっても重要なことがわかった。動物が“T”の形を見るとき、そこには物体――サルがつかめて食べられる可能性のある――の端が存在する可能性がとても高い。サルの脳の特定の部位は、こうした重要な形、縦横の線の組み合わせに特別な注意を払う。ある線が縦か横かを察知する特殊なニューロンまである。

人間の脳は文字を処理するのにも、視覚に関わる脳の部位を使っている。脳は世界を交差する線や境界という視点で見ている。その事実を利用して、私たちはアルファベットをつくった。一方で、霊長類の脳は対称的な形(pとq、bとdなど)を同じものと判断するように進化した。サルの脳は縦あるいは斜めの線と横の線に対して違った反応をするが、ふつう右向きでも左向きでも同じように反応する。なぜなら、現実の世界で私たちは常に動き回っている。カップの把手は、一方から見れば左側についているが、別の方向から見れば右側についている。

そう考えれば、読字障害(ディスレクシア)の子どもや大人が、こうした対称的な文字を区別するのにたいへんな苦労をするのにも納得がいく。また“鏡文字の読み書き”という、人間の風変わりで不思議な能力も説明がつく。無意識で一つの文字どころか一文を丸ごと反転させて書く子はたくさんいる。

しかし読むことが脳の生来の脳の構造にしっかり縛られているとすれば、書く人はbやdを使わないようにするのではないかと思える。ところが脳はこれらの対称性を区別する新たな能力を、神経レベルにまで発達させた。発達中の脳が違う意味を持つ二つの対称的な文字を見ると、神経回路の接続が変化してそれらを区別できるようになる。

人間は読むことを学ぶとき脳の回路を変えている。そして何年もの間に何十万、何百万もの文字を読むうちに、その回路のつながりが特に強力になる。そして何の苦労もせず読めるようになる。わりと早い時期から読むことを覚えると、それは文字通り自然に、無意識にできるようになるのだ。

その最適な例が、心理学でストループ効果と呼ばれるものだ。赤い字で書いた“青”という字を見せて何色か訊ねると、赤ではなく青と答える人が多い。このプロセスは完全に無意識だ。どれほど努力しても、単語の意味を無視して、色だけに意識を集中することはできない。

読むことに関わる脳の部位が損傷すると、特殊で特徴的な問題が生じることがある。脳卒中や事故で脳の一部が傷ついた患者が、話すことはできるのに読み書きができなくなることがある。そういう患者は書いてある文が見えても、意味を理解することができない。このことからも、脳の中には読むことに特化した部位があることがわかる。

読むことは私たちの生活、そして私たちの脳に、奥深く組み入れられている。そのため、もしこの歴史を知らなければ、私たちは読むための脳は、数千年の文化の積み重ねではなく、何百万年もの進化の結果だといともたやすく結論づけてしまうだろう。

読むことを古いテクノロジーではなく、新しいものとしてみれば、人間の頭脳に与えた影響について、大きな不安を感じるかもしれない。かつて視覚と発話専用だった皮質が、印刷物に乗っ取られている。以前は見よう見まねと繰り返す練習をすることで学んでいたのが、いまは講義と教科書に頼っている。そして読字障害、注意力障害、ほかの学習障害といった代償を見れば、人の脳がそんな不自然なテクノロジーのためにつくられていないことがわかる。

私が4歳でなく40歳で読むことを学んだとしよう。人通りの多い道を歩いている間も、気が散って仕方がないだろう。たえず現在から引き離され、立ち止まって看板に書かれた不可解な記号を見て、それぞれの意味を思い出し、解読し、また無理やり意識を道に戻す。大きな掲示板が並ぶハイウェーを運転するのは、信じられないほど危険だ。

過去にはとても頭のいい人たちが、読むという新しいテクノロジーに対してそのような反応をした。ソクラテスは書くことはとんでもない考えだと思っていた。プラトンの『パイドロス』で描かれるソクラテスは、タイムズ紙の反テクノロジー主義者の論説のような調子で、こう言っている。

人間がこれを覚えたら、魂に忘却を植え付けるだろう。人は記憶する努力をせず、書かれたものを頼り、自分の内からではなく外にある記号によって思い出そうとする。あなたがたが見つけたものは記憶ではなく、思い出させるための手段である。そしてそれは弟子に授ける真の知恵ではなく、みせかけにすぎない。弟子に教えを授けずに多くのことを話せば、彼らが多くを知っているように見せかけることはできるが、ほとんど彼らは何も知らない。そして人間が知恵ではなくうぬぼればかりを身につければ、その人は仲間にとって重荷となる。

ソクラテスは内省的な思考にとってたいへん重要な双方向の批評的対話の力が、読み書きを覚えることで衰えることを恐れていた。書かれた文章には反論も質問もできない。そして書かれたものだからと、信じてしまう可能性が高い。

ソクラテスはまた、書くことが記憶力を衰えさせるとも考えていた。古代の世界の詩人たちは驚異的な記憶力を発揮して、何千もの詩をそらんじていた。ホメロスの叙事詩『イリアス』は記憶だけを頼りに、吟遊詩人の間で口づてに語り継がれた。もし書いたものがあれば、わざわざすべて記憶する必要などないではないか。そうなれば苦労の末に獲得する驚異的な記憶力は消えてしまう。

そして確かにソクラテスは正しかった。読むことは話すこととは違う。私たちは書いてあるものというだけで信じてしまう傾向がある。そしていま『イリアス』をすべて暗記する人はいない。読むことが広範囲にわたって文化と思考をつくり変えたのは本当だ。読み書き能力は、近代の個人主義やプライバシーの概念、プロテスタントの誕生とつながっている。しかし結局、大半の人が(少なくとも私たち本読みの大半が)害より益のほうが大きいと判断するだろう。

読み書き革命のもう一つの見方は、私たちのような読者にとっては励みになる。会話や歌や劇場といった昔のメディアの多くが読み書きによって大きく変わったが、完全に取って代わられたわけではない。いまの私たちがホメロスの『イリアス』を暗記することはないかもしれないが、彼の詩はいまでも読まれている。むしろ完全になくなってしまったメディアを探すのは難しい。少なくとも歌ったり踊ったり、少人数の朗読会で詩を声に出して読んだりする人はいるし、昔と同じ熱意やスキルを持つ料理人や木工職人もいる。小説が劇や映画のせいでなくなったということもない。映画はかつて恐ろしい侵入者のように扱われていたが、いまではすばらしい芸術であり、もっと下等なものに脅かされているとみなされている。

画面の世界

私たちは現在、また別の大きなテクノロジーの変化の渦中にいる。いまこの瞬間、あなたは本ではなく画面上で視線を動かしているかもしれない。そしてそれと同時にユーチューブへのハイパーリンクをクリックし、友だちにメッセージを送り、スカイプで恋人と話し、ツイッターやフェイスブック(あるいは本書を読むころにはそれらに取って代わっているかもしれないテクノロジー)をチェックしているかもしれない。

私たちは新しい世代の可塑性に満ちた赤ん坊の脳が、新たなデジタル環境の中で形成されていくのを見ている。私の夫(ピクサーの共同創始者)のようなヒッピー世代は、ピンク・フロイドを聴きながら、双方向のコンピュータ・グラフィックをつくろうと苦労していた。ピアス穴を開けラップを歌うY世代の子どもたちは、そうしたグラフィックスを当たり前のものとして大きくなる。そのデジタル世界が話し言葉や印刷物と同じように、思春期の経験の一部となっている。オージー〔著者の孫の一人〕 の世代はこうしたデジタルのスキルに、さらに低い年齢から触れるだろう。オージーは“機関車”や”トーマス”という言葉が何かを本で知る前に、どうすればそれを見られるかをスマホで学んだ。

若者の脳は私たちの脳とは違うものになると考えてかまわないだろう。読み書きができるようになったあとと前では、脳にはっきりとした違いがあるのと同じである。しかしその違いとは正確には何なのか、どのくらいの影響があるのか、それがよいことなのか悪いことなのかは、また別の問題である。

前述のデバイスの話は、新しいテクノロジーが未来の世代に実際どれほどの影響を与えるか予測するのがいかに困難かを示している。テクノロジーの中には、本当に私たちの生活、心、社会をつくり変えたものもある。テクノロジーが出現する前、人々はほぼ確実に大げさな予想をして、必要以上の不安を抱くが、広く受け入れられたあとは、当たり前のものとしてほとんど気づかなくなる。

本はあらゆるものを変えた。しかしそれは、いまとなっては忘れられているテクノロジーである電信も同じである。情報は昔は早馬と同じ速さで移動した。それが突然、電気の速さで移動するようになった。時速10マイルから数百万マイルで飛ぶようになったのだ。このときもおなじみの批判に見舞われた。1858年に『ニューヨーク・タイムズ』は、電信は「底が浅く、唐突で、よく検討されておらず、本当のことを伝えるには速すぎる……きっと大きな害をなす」と明言した。列車はさらなる大変革をもたらした。一九世紀までは、人はどんなに速くても1時間に20マイルほどしか移動できなかった。列車と電信は本当に、近年のどんなテクノロジーもかなわないほど大きく人間の生活を変えた。それでもいまの私たちは電信と列車をテクノロジーだとはまったく思っていない。

テクノロジーの変化は、重要な文化的変化につながるが、どう変わるかはやはり予想できない。20世紀への変わり目に、アメリカ独特の文化の形はいつ、そしてどのように生まれるかという、広範囲にわたる議論があり、すばらしいアメリカの小説、すばらしいアメリカの交響曲がよく話題になった。ユダヤ人のビジネスマンの移民と元芸人たちが南カリフォルニアの荒れ地で、ほんの数年前に現れた新しいテクノロジーを使ってつくりあげた大衆娯楽である映画が、偉大なるアメリカの芸術になるとは誰も想像していなかった。

エデンと『マッド・マックス』

私たち大人がテクノロジーによる変化の影響について判断を誤る理由の一つは、変化の経験が大人と子どもではまったく違うということだ。他の多くの人たちと同じように、私はインターネットによって、自分の経験が以前よりも断片化してばらばらになり、連続性が失われたと感じている。しかしそれはおそらくインターネット自体のせいではなく、大人になってからデジタル技術の世界に入ったためだろう。

私たちはみんな読むことを、まだ脳が柔らかい子どものときに学んだ。現在、生きている大人が、2017年に生まれた子どもたちのように、デジタル世界を自然に無意識のうちに経験することはないだろう。2017年生まれの子はデジタル・ネイティブである。私たちはデジタル語を、移民のように苦労してたどたどしいアクセントで話している。

私のウェブでの体験は断片的で連続性がなくて、骨が折れると感じるが、それは大人になってから新しいテクノロジーを学んでいるからだ。それは意識的な、集中力を必要とするプロセスだ。大人にとって、この種の注意力は限られた時間しか続かない。

これは神経レベルでも当てはまる。何かに注意を向けているとき、前頭前野皮質(意識や目標に向かう計画に関わる脳の部位)が、学習を助けるコリン作動性伝達物質の分泌をコントロールしている。その化学物質は脳の特定の部位にしか到達しない。前頭前野皮質は抑制性伝達物質も分泌する。それは他の脳の部位の変化を抑制するものだ。つまり私たち大人が新しいテクノロジーと格闘しているとき、脳は一度に少ししか変わることができないのだ。

注意と学習は脳の中でまったく異なる働きを持つ。若い動物の脳には、大人に比べてコリン作動性伝達物質が広範囲に存在している。彼らの学習能力は、計画的で意図的な注意力頼みではない。若者の脳は、たとえ自分に関係なくても、あるいは役に立たなくても、新しくて意外で情報量の多いあらゆることから学習できるようにできている。

そのためデジタル世界とともに育つ子どもたちは、私たちが読むことを学ぶときと同じように、ごく当たり前に一つのスキルとして学び習熟するのだろう。しかしだからといって、その子たちの経験や脳がインターネットによって形成されるわけではない。本に没頭していた私の20世紀の生活が、ほとんど字が読めなかった19世紀の農夫の生活と同じであるように。問題は現在の世代ごとの変化、ラチェットの前進による底上げが、あまりにも大きく、長い歴史の中で変化するものと変わらないものが見えにくいということだ。自分が生まれた前の年はエデンに見え、あなたの子どもが生まれたあとの年はマッド・マックスに見えるのはしかたない。

テクノロジーのラチェット

デジタルについて特に悲観的な人々が、現在のテクノロジーの効果とみなすもののうち、本当に革新的な変革はどれで、比較的小さな変化なのにラチェット効果で大きく見えているのはどれだろうか。

デジタル悲観主義者には、人間性のわずかな変化でも、悲惨な結果につながりかねない心理的大変化のように見える。私たちはあるテクノロジーが長期的に二歳児のその後の年月にどのような影響を与えるか知ることはできない。しかしスマートフォンやソーシャルメディアがティーンエイジャーに与えている直接的な影響についてはいくらか知っている。学校から家に帰って、友人にメールして、インスタグラムをアップデートする子が、家に帰ってテレビで『ギリガン君SOS』〔60年代のアメリカのコメディドラマ〕の再放送を見る子(これも私の経験)よりも、本当に成績が悪いのだろうか?

メディア研究者のダナ・ボイドはさまざまな経歴のティーンエイジャーたちと何千時間も過ごし、彼ら/彼女らがテクノロジーをどう使っているかを体系的に観察し、その子たちにとってテクノロジーとはどのような意味を持つかについて話を聞いた。彼女が出した結論は、彼らは若者がずっとやってきたことをするためにソーシャルメディアを使っているということだ。つまり友人や仲間のコミュニティを築く、親から距離を取る、ふざけ合い、噂話、いじめ、実験、反抗などだ。

現代のティーンエイジャーが家族のプレッシャーから逃れるためにソーシャルメディアを使うのは、直接的な逃避の手段――排水管をすべり下りる、窓から出る、堂々と玄関から出る――があまりないからかもしれない。近所に家がない、交通の手段がない状態では、思春期の若者が独力で家を出るのはほぼ不可能だ。ロサンゼルスで車なしにどこへ行けるのか。森の小道や村の広場、川沿いの草原が、ウェブのバーチャル空間に取って代わられた。

同時に、ボイドはインターネット・テクノロジーが、本や印刷機や電信と同じように、変化をもたらしたと述べている。以前は臭い更衣室の空気の中に消えてしまっていたひどい悪口が、一瞬で世界中に広まり、未来永劫サーバーに残される。ティーンエイジャーは現在のテクノロジーのこうした新しい側面を考慮に入れ、利用の仕方を学ぶ必要があるし、だいたいはそうしている。マデリン・ジョージとキャンディス・オッジャーは、最近の科学的研究論文に同様の結果を数多く見つけている。彼女らはアメリカのティーンエイジャーの多くが、デジタル世界に夢中であることを確認した。彼らは一日に平均60通のテキストを送り、78パーセントが携帯電話を持っていて定期的にウェブにアクセスしている。しかしモバイル機器の中で経験する世界は現実世界の経験の代わりではなく、現実と並行している。学校で人気のある子はウェブでも人気がある。いじめっ子はどちらの空間でもいじめっ子だ。ティーンエイジャーを虐待したり脅かしたりするのは、インターネット上の見知らぬ人ではなく、いまだ近くにいる家族である可能性のほうが高い。

事実、ジョージとオッジャーは、インターネットに関して親が特に恐れていることを集め、その恐怖には根拠がほとんどないことを示した。テクノロジーが生んだ本当の問題は、ほとんどの親が想像もしなかったことで、子どもと同じように大人にも悪影響を与えている。それはLED画面を見ていると眠れなくなるということだ。

はっきりとはわからなくても、ボイド、ジョージ、オッジャーが示した、変化よりも前から継続していることのほうが多いという状況は、他のデジタル化への懸念にも当てはまるだろう。悲観主義者の中には、人が人でないもの――たとえばロボット――と、あたかも人間同士のように関わり、架空のバーチャル世界に没頭することを心配する人もいる。しかし幼い子はたいてい架空の仲間、それもロボットより捉えどころのない(そもそも存在していない)生物と話をする。ごくふつうの子はみんな、非現実的なごっこ遊びの世界に夢中になる。そして前の世代の人たちも同じことをする。ファービー人形が壊れて泣く子が、ディケンズの小説に出てくる人形のために涙を流す子とどう違うのか。寂しい思いをしている未亡人がチャットボットに話すのと、死んだ夫の写真に向かって話すのはそれほど違うことなのか。バーチャル世界での恋はハーレクイン・ロマンスとそれほど違うのか。

そして実際に顔を合わせて話すよりも、きわめて抽象的な記号を介したコミュニケーションが増えているという事実についてはどうだろうか。たとえばテキストメッセージという、最も人々を戸惑わせているテクノロジーの成功例について考えてみよう。多くのティーンエイジャーが一日何百ものテキストのやりとりをする。私たちはコンピュータの巨大なパワーを利用して、親指で電報を書けるようになった。昔を懐かしむように、テキストを生の会話だけでなく、一昔前の主流だった電話と比較したくなるのはわかる。しかし電話もかつてはテキストと同じように、多くの人に脅威をもたらすと思われていた。

しかし少なくとも書くことが始まってから、いや、(異論はあるだろうが)言語が出現したときから、人間は抽象記号を使って最も親密な関係を築いてきた。バートランド・ラッセルとレディ・オトライン・モレルはロンドンの郵便局を介してロマンスを続け、一日に数回も手紙を書いた。プルーストも、速くてたくさんのやりとりができるパリの気送管ポスト、プチブルを使っていた。ロンドンでは郵便が一日12回も配達され、プチブルは送った二時間後には到着した。ヘンリー・ジェイムズの短編『いとよき所(The Great Good Place)』は、日常生活から離れて別の世界に行くファンタジーだが、氾濫する電報と義務の多さを嘆くところから始まる。これはEメールの受信箱がいっぱいになっている人にはおなじみの光景だろう。

もう一つの懸念は、インターネットはいずれ人間の、注意を向けるという能力を破壊するのではないかというものだ。大人の注意力には限りがあり、また注意のパターンを変えるのも難しいのは確かだ。その結果、読むことに向いた注意力を持つ人にとって、ウェブから大量に送られるじゃまな情報を無視するのは難しいかもしれない。しかしこれまで見てきたように、現在の教室で求められる、必要以上に高い集中力自体、最近の文化的発明であり、益もあれば代償もある。読み書きや学校教育に有効な、集中力を高める戦略が当たり前に思えるのは、それが広く普及していて、ごく幼いころからそれを学んでいるからだ。けれども違う時代と場所では、注意を分散させる方法がそれと同じくらいの価値を持ち、同じように自然なことだった。私は採集や狩猟をなりわいとしていた人たちのような、広範囲に目を配るスキルを身につけることはできないだろう。しかし幸運なことに、幼いころから子守の練習はしていたので、何かの作業をしながら子どもに目を配るという、やはり昔ながらのスキルは持っている。

おそらくデジタル世代の孫たちは、いまの私たちが狩猟の達人や六人の子の母親に対して抱くのと同じノスタルジックな畏怖を、読むことの達人に対して抱くだろう。20世紀の高度な読み書きスキルは消滅はしなくても、少なくともとても特別にマニアックなものになるだろう。現在の狩猟、詩、ダンスのように。しかし人間の歴史がこれまでと同じ道をたどるならば、他のスキルがその代わりとなる。ただ前のスキルも完全に消えることはない。

ウェブの都市

しかしデジタル悲観論も、ある面では当を得ている。ボイドのティーンエイジャーについての調査は、本当に重大な変化を知らせる転換を指摘している。確実には言えないが、インターネットには前とは違うと思わせる何かがある。それは電信並みの大きな変革だ。しかしその結果をもたらしたのはコミュニケーションの速さや性質の変化ではない。テキストとEメールの速さは、電話や電報とそれほど変わらないし、内容も特に豊かになったわけでもなく貧しくなったわけでもない。

しかしそこに関わる人数については、大きな違いがあるようだ。ほとんどの人にとって、記憶していられる他人の数はせいぜい100人くらいと言われている。一つの村の人口くらいである。都市が生まれたことで、村の定義は社会的なものではなく地理的なものになった。都市の住人は通りですれ違う人が誰かを認識せず、目を向けさえしなくなった。これは地方から来た人には、不可解で不快にさえ見えるスキルだ。郵便ポストやプチブルは、比較的小さな都市の文学者の交友をつないでいた。

ウェブはそうした交友範囲を急激に拡大する。私たちがグーグル検索を行うとき、優秀なコンピュータに相談しているわけではなく、何百万人もの手を介して獲得した情報を集めているのだ。最初は自分の社会的ネットワークの範囲をデジタルに規定するサービスだったフェイスブックは、いまやそのネットワーク自体を認識できないほどのサイズにまで急速に拡大させている。私たちはウェブ上で地球全体とコミュニケーションを取っているが、頼っているのは村の生活のためにつくられた考え方である。

都市の子どもたちは都市でうまく生きるスキルを学ぶが、私たちはウェブでうまく生きるスキルをまだ確立させていない。誰と話すべきかを判断するのはもっと難しい。通りにいるはた迷惑な人物を排除したり、わけのわからないことを叫んでいる人を無視したりするほうが、匿名で投稿される扇動的なコメントを取り除くよりずっと楽にできる。ウェブ上では、誰もが大都市で迷う田舎者になる。少なくともいまはそう見える。

それでも都市の住人はマンハッタンが平凡な街であるかのように暮らすことはできないし、本当にそんなことを望んでいない。デジタル悲観主義者が説明する矛盾した感情は、都市の世界の特徴的な感情だ。刺激、目新しさ、可能性がある一方で、孤独、心の乱れ、疎遠がある。印刷された本が現れるはるか前から、ホラティウスと紫式部は都市の生活における、簡素さ、心配り、意義深さへの憧れを表明している。ギリシャの田舎での隠遁生活を記した古典や、仏教の僧院がデジタル化されれば、きっと誰にとっても役に立つ。インターネットのヘビーユーザーである友人の中には、デジタル安息日をもうけて、一週間一度すべての画面を閉じ、スイッチをオフにしている人がいる。しかし大都市やもっと広い世界であるウェブという戻るべき場所がなければ、静かな村やデジタルの及ばない僧院の魅力は減じてしまうだろう。

どうするべきなのか

これらのテクノロジーについての疑問は、伝統とイノベーション、依存と独立の間にある根本的な葛藤を示している。それらは親になることの葛藤の中心でもある。成長するのに必要な豊かで安全で安定した状況を提供すること。それと同時に、子どもがどう育つかをコントロールできる、あるいはするべきと考えないことをどう実現するかが親にとっての難題だ。

そう言うと、人はただ流れに任せて、世代ごとにテクノロジーや文化の変化は避けられないことを認識し、何も言わずに子どもたちにスマホを持たせるよう勧めているように聞こえるかもしれない。しかしラチェット構造は世代の隔たりの両側に頼っている。イノベーションには伝統が必要だ。親などの保護者が自らの発見、習慣、スキル、そして価値観を子どもに引き継がなければ、新しいテクノロジーと文化へと移行することは不可能だ。ただし子どもがそうした伝統をただ再現するわけではないし、そう思うべきでもない。

世話をする者がしっかりとして安定した環境を子どもに与えれば、子どもはそこでさまざまな変化を経験し、予想もつかない方向に自由に伸びていく。私たちは子どもに、つくり変えるための世界を与えるのだ。同じように、私たちが自分たちの伝統やスキル、文化施設、価値観を伝えるからこそ、子どもたちはそれらを自分たちの時代に合うよう変容させることができる。私がとても本を大切に思っているのを知っているので、子どもたちはその先に進んで画面を大切にするかもしれない。そして本も彼らの生活の一部となってほしいと思う。オージーは祖母にとって『かいじゅうたちのいるところ』や『オズの魔法使い』が代表的な文化であることを知っているが、彼の世代にとってのそれは『プレーンズ2』、あるいはまだ見ぬデジタル作品になるだろう。私の祖母のイディッシュの伝統は、私ときょうだいの心の中にも残っている。たくさんのひどいジョークや、クリームチーズと塩ざけの味だけだとしても。

親と特に祖父母の重要性の一部は、文化の歴史と昔から続いているという感覚を持たせることだ。過去とのつながりを感じなければ、子どもの人生は寂しいものになるだろう。親になることは、ペアレンティングの教えとは逆に、過去と未来の架け橋となることだ。私にできないこと、してはいけないことは、子どもや孫が私とまったく同じ価値観、伝統、文化を引き継ぐと考えることだ。よくも悪くもデジタル世代は独自の世代をつくり、その中でどう生きるかを決めるのは、私たちではなく彼らなのだ。

もちろん幼いころ愛情をかけて育てた子どもが、いずれ不可思議で理解を超えたテクノロジーの未来からやってくる、不可思議で理解を超えた訪問者になるのは悲しいことだが、子育てにそうした悲劇はつきものである。しかし少なくとも一つ希望が持てるのは、私の孫たちは、デジタル世界について、私のように断片的で散漫で疎外されたと感じる経験はしないと、科学的に示されていることだ。孫たちにとってインターネットは基本であり、生活に根づいた永遠の存在なのだ。それは私にとって20世紀の文字文明の最高峰であったペンギン・ブックスのペーパーバックと同じである。

出典:『思いどおりになんて育たない』第8章

アリソン・ゴプニック(Alison Gopnik)
カリフォルニア大学バークレー校心理学教授・哲学客員教授。マギル大学で修士号、オックスフォード大学で博士号を取得。子どもの学習と発達に関する研究の第一人者として著名。「心の理論」の研究分野の創始者の一人であり、近年は子どもの学習に対してベイズ推論と確率モデルの考え方を導入したことでも知られる。著書に"The Philosophical Baby: What Children's Minds Tell Us About Truth, Love, and the Meaning of Life"(青木玲 訳『哲学する赤ちゃん』,亜紀書房,2010 年)などがある。

ヘッダ

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『思いどおりになんて育たない:反ペアレンティングの科学』

アリソン・ゴプニック 著、渡会圭子 訳、森口佑介 解説

「ひとりで寝かせるべき?」
「添い寝をすべき?」
「習いごとをさせるべき?」
「それとも、遊びを優先すべき?」

よき親として「すべき」ことは何かを求め、日々悩みが尽きない現代の親たち。しかし、数十年にわたり子どもの学習を研究してきたアリソン・ゴプニック氏によれば、巷の子育ての「べき」論(=ぺアレンティングの規範)には根拠が乏しい。そればかりか、子育てを仕事のように捉える発想自体が、最新の科学的知見に反するのだ。

ほかの動物と比べ、人間の子育てには特殊な点が多い。人間の子どもは、異常に長い期間、親やそれ以外の大人たちから世話を受ける。見る、聞く、遊ぶことすべてを通じて、生まれ落ちたこの世界について知っていく。

・進化の過程で、人間の親子が獲得した「育て、育てられる」関係とは?
・発達研究が明らかにしつつある、子どもの持つ驚くべき学習能力とは?

子どもは親の思いどおりになんて育たない。それこそが、子どもが「学ぶ力」を持って生まれてくる意味なのだから。

発達心理学の第一人者が贈る、優しさと意外性に満ちた、親子の科学。

【目次】
イントロダクション
第1章 ペアレンティングに異議あり
第2章 子ども時代の進化
第3章 愛の進化
第4章 見て学ぶ
第5章 耳から学ぶ
第6章 遊びの役割
第7章 成長する
第8章 未来と過去:子どもとテクノロジー
第9章 子どもの価値
解説:森口佑介

・森口佑介先生による「解説」はこちら:


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