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あなたは今、幸せですか?と言われて、すぐに「はい」と答えられるか。

あなたは今、幸せ?

 このタイトルに対して、「はい」と即答できる人はどのくらいいるのだろう?「はい」と即答できないまでも、しばらく考えてから「まあまあ、幸せです」と答える人もいれば、「う~ん」と唸ったまま、答えに窮する人もいることだろう。“人の幸せ”とは何だろうと考える。
ちょっと話をきいてもらいたい。
 

ある夫人の話

 先日、会ってきた夫人の話である。夫人は「もう死にたい」とか「どうしたらいいのかわからない」とこぼす。傍目から見れば、お金も充分に使いきれないほどある。不動産など財産もある。子供たちはとっくに独立して孫もいる。条件的には何の不自由もなく、暮らしていけるはずで、十分に幸せと言えるのではないだろうか。それでもすべての不幸を背負ったように嘆き、悲しみ、どうしたらいいのだろうと言う。
 眠れないと睡眠薬安定剤も飲んでいる。主人は十年ほど前に脳卒中を起こし、半身不随になり、家では世話ができず、今は高額な費用も掛かるが施設に入っている。それでも保険や年金で十分払っていける額であり、心配はない。このコロナ禍で面会も制限されている。
 自宅では夫人が一人で暮らしているが、心配した子供が、時々は様子を見に来てくれている。夫人の名前は仮にA子さんとしておく。

「A子さん、まだ病院へ行ってるんですか。」
「寝られないの。睡眠導入剤と、ぐっすり眠れる薬と処方してもらってるの。」
「眠れないのは辛いですね。でも、そんなものに頼っていてはよくないですよ。」
「そうは言っても一晩中、天井、見て朝が来るのを待っているのも辛い…。どうしたらいいんやろ…。もう、うつ病やわ…。」
「うつ病じゃないですよ。適応障害でしょう。それは…。」

 
 今まで、さんざん海外旅行だ、グルメだと遊びまわっていたのに、いったいどうしたことかとも思うが、話を聞けば聞くほど、貧乏生活している自分との違いに驚かされる。そして、お金が幸せの基準ではないと思わせる。
 財産がある家の主人と若い時に恋愛結婚し、子供もでき、何不自由ない暮らしだったが、夫婦仲は決してよかったわけではなかったようだ。主人は人当たりもよく、優しい人だが、田舎の跡取りとして大事に育てられ、恵まれてはいるが、我がままに育ったのであろう。夫人も同じく田舎の財産がある家で気ままに育ってきている。私から見れば、何とうらやましい環境で育ってきたのかとも思うが、外から見ただけではわからないのが、世の常である。
 
「お金のことばかり心配しているけど、死ぬまでに使いきれないくらいあるのに何が心配なんですか。」
「固定資産税もあるし、確定申告もしなきゃいけないし、頭がおかしくなりそう…。」
「そんなこと、税理士さんもいるし、近くに住む子供に任せたって大丈夫だし、何も心配いらないじゃないですか。」
「あの子じゃ、わからないし、最近、うちに顔も見せにも来てくれない。独りぼっち…。」
「そんなことないんじゃない。いい子だし、まあ、仕事や奥さん、子供のことでも忙しい時だし…。」
「税金関係のこともやってもらいたいんだけど、全然、やってくれない…。」
「そんことないよ。ちゃんと考えてくれていますよ。前に会って話したけど…。」
「孫にお祝いや車も買ってあげたのに礼も言ってくれない。」

 
 口から出るのは愚痴ばかり…。聞いている方も嫌になってくるのがわかる。お金に囚われると、こうなってしまうのかとも思うが、子供たちがかわいそうでならない。
 
「お金のこと、よく言うけど、そんなもの、死んで、あの世まで持っていけるわけでもないし、借金さえ子供たちに残さなかったら、それでいいじゃないですか。」
「だけど、税金も払わなきゃいけないし、不動産収入も減ってるし、不安やわ。」
「ちょっと待って下さいよ。一生かかっても、使いきれないくらい貯金もあるのに、何、言ってるんですか。」
「固定資産税も○○○万、払わなきゃならないし…。」
「そんなもの、貯金、崩して毎年、死ぬまで払っていっても、まだ、だいぶ残りますよ…。そんなことばっかり考えて、どんどん不幸になっていくのはバカバカしい話ですよ。」
 

幸せの頂点から奈落の底へ

 全ての始まりは主人の病気から始まったように思えるが、いろいろ話を聞くとそうではないようだ。アパートや駐車場の不動産収入もあり、主人も元気で会社勤めもし、子供たちも元気で、傍目からは本当に幸せな家族だと思える。いや、平均以上に幸せなのだろう。子供たちも成人し、働き始め、結婚もして、家も建ててあげ、独立した。子育ても終わり、夫婦で海外旅行やそれぞれの趣味をやって、理想的な人生だと思えるのだが…。今までの幸せが本物の幸せではなかったのかとも思えてくる。
 
「何不自由なく、理想的な暮らしじゃないですか。」
「そんなことないよ。脳卒中してから、おかしくなった。」
「そうはいってもご主人はリハビリもがんばっているし、日常生活で不便なこともあるだろうけど、助け合っていけば、いいことじゃないですか。」

 
 主人は元々、よく働き、ギャンブルなどもする人ではなかったが、お酒が入ると人が変わる面もあったようだ。普段はそんなことを感じさせない人だと思っていたが、それが元で子供たちは父親を恐れてもいたようだ。やはり跡取りとして大事に育てられて、わがままな面もあったのだろうが、内弁慶な面もあったのだろう。妻や子供に当たっていたこともあるのだろう。十分に幸せなのに、本人たちは気づいていないのか、家族全員仲睦まじく暮らしていたわけではなかったようだ。表向きには幸せな家族を装っていただけなのだろうか。
 
「お酒って、そんなに飲んでいたんですか。」
「焼酎を割って飲んでいたけど、注意すると怒り出すし、とにかく怒らせないようにしてた。」
「そうなんですか。普段、優しい人なのにお酒が入ると変わっちゃうんですね。」
「たばこもよく吸うし、それである日、心筋梗塞を起こして、病院での処置が悪くて、脳にも障害が残って、半身不随になってしまったの…。」
「でも、退職してからのことだし、そんなに飲んでいたのも何か不満があったのでしょうかね。」

 
 夫人はとにかく主人の酒癖の悪さを切々と訴えたが、そうなる原因については気がついていないのか、話したくないのか、一方的に愚痴をこぼし続ける。
 
「確かに愚痴をこぼしたくなるのもわかるけど、そんなことばかりしてたら、友達も離れていきますよ。」
「もう、みんな離れて行ったし、兄弟もみんな相手にしてくれない。」
「そりゃ、そうでしょう。みんな心配してくれてるのに、自分から切るようなことをしてるんだから。」
「息子たちにも相手にされないねん。様子を見に来てくれても、すぐ帰るし…。」
「明るく元気に過ごしてさえいれば、来てくれますよ。反対に愚痴ばかりこぼしてたら、身内でも聞きたくないでしょう。」

 
 近所に住む子供に会ってきたが、やはり心配しているけど、会えばお金の話や愚痴や不平ばかりでうんざりしているというようなことを言っていた。主人もさすがに施設に長くいるのは辛いのか、電話をよくかけてくるようだ。やはり家に帰りたいと…。
 
「やっぱり、施設は快適でも、家には帰りたいんじゃないかなあ…。」
「帰りたいさ。でも、私は世話できる自信がないわ。」
「助け合っていけば、いいだけのことで、高い金、払ってまで施設に入れておくことはないんじゃないですか。」
「だけど、食事から風呂まで、介護なんて、できないわ。家では世話できないから。」
「でも一人でいるのもさびしいんでしょう?覚悟決めればいいだけのことじゃないですか。ケアマネージャーさんとか、相談してやろうと思えば、いろいろ考えられますよ。」
「…。」
「結局、世話はできない。でも一人は寂しい。別にお金に困っているわけでもないし、要はA子さんの心次第だとも思うけどなあ…。」

 
 何年も通い続けて、わかってきたが、一見幸せそうな家族だったが、いびつな親子関係、ケンカばかりの夫婦仲が、微妙なバランスで何とかもっていたが、それが主人の病気から一転し、バランスが崩れてしまったということのようだ。いろいろ提案もし、お手伝いもしてきたが、家族全員が変わらなければ、何も変わらないような気もする。話を聞けば、親の代でも同じことをしていたようだし、同じようにその親も脳卒中で、ずっと病院だったということだから、通り返しの因縁なのかとも思える。
 

お金では買えない“幸せ”や“友達”

 世の中にはお金がすべてという人もいるが、お金は一時的に自分の欲を満足させることはできるが、本当に“幸せ”は買えないものだと感じる。もちろんお金は必要なものではある。しかし、それにこだわってばかりいると見失ってしまうものが、増えていくようにも思う。働かずにいても、年金、保険、不動産収入で、充分に暮らせ、死ぬまで何もしなくても使いきれない貯金もあるというのに“しあわせ”に暮らせないというのも不思議な話だが、世の中にはそんな人もいるんだと、つくづく驚かされる。
 
 友達がいなくなったというが、子育ても終わり、夫婦も自由になり、それぞれ趣味や遊びに夢中で、友達と、やれ海外旅行だ、グルメだと遊びまわっていたのに、そんな友達はみんな離れて行ったという。それは友達ではなく、気前よくお金も出してあげて一緒に遊んでもらっていたに過ぎない。
 
困った時にでも親身になって相談したり、最後まで見すてないのが友達ではないだろうか。そんな友達もいたようだが、皆、離れて行ってしまったようだ。
 

心の病はこじらせないことが大事

 「うつ病」「適応障害」などの精神的な病にはデパス、メイラックスなどベンゾジアゼピン系抗不安薬と言われる薬が睡眠薬と一緒に処方されることが多い。人間にとって眠れないことは本当に辛い。眠いのに天井を見つめ、意識がはっきりして、余計なことばかり考えて不安になり、夜があけてもボーとしている。元気よく暮らしていた人であればあるほど、そうなってしまった時は不安にさいなまれ、どうしていいのかわからなくなってしまう。一発で治るクスリでもあれば、いいのだが、そんなものは存在しない。 
 負のスパイラルとはよく言うが、それに落ち込んでしまって、なかなか抜け出せない人も多いようだ。
結局、やはり「心の問題」なのかとも思う。精神科などの病院へ行ったところで、話や愚痴を聞いてくれるだけで、時間が来れば、症状に合わせて「では、薬を出しておきましょう」で終わる。医者は対症療法はできるが、心の病までは根本的には治せない。結局、本人が変わるしかない。
「適応障害」の場合は意識的に環境を変えるとか、不安材料を取り除いていくこともいいのだが、自分の経験からは、「居直る」ことが一番、いいように思う。

プライド? → そんなものは捨てましょう!何の役にも立たない。
いやな相手? → そんなものはこちらから縁切りだ!新しい友達を作ればいいだけのこと。
職場に顔を出しにくい? → やめて、他の仕事をすればいいんです!
将来が不安? → みんな不安なんです。不安がるより信頼できる友達に会いましょう!
人前に出たくない? →  誰もジロジロ見てないよ!むしろ知り合いは心配してる。
やりたくないことをやらされる? → そんなやりたくもないことをやる必要ない!堂々と拒否!
気力がわかない? → 休んだらいいんです。悪いことじゃない。いいことなんです。
マイナスに考えてしまう? → 今まで成功したこと、いっぱいあるはずです。

 環境に左右され、がんじがらめになり、悩み、抱えこんでしまって、人はおかしくなる。バリバリ仕事もこなし、人にも頼られ、元気だったのに、おかしくなってしまう。心だって、“風邪”をひくことがある。
なってしまってからは大変だから、こじらせないようにすることも大切じゃないんだろうか?
 仮になってしまっても、心配することはない。休んだって、長い人生(90位まで生きるとして)の中のほんの短い間でしかないんだから。自分は完全な人間じゃない、スーパーマンじゃない、できないこと、いやなこともある。居直って、さらけだせばいいだけの話だ。どうせお迎えがきたら、この世と、おさらばなのだから、それまで、楽しんでやると“居直れ”ば、いいだけのことだ。

 ただ、経験上、この“居直る”ことは簡単ではないと言える。それがなかなかできないから、苦しむのであり、堂々巡りばかりしてしまう。だから十分に休んで、ぐっすり眠って気力を貯めて、もう戻らないと腹をくくったら、“居直って”一歩踏み出せばいい。薬はすぐにやめなくてもいい。じきに必要なくなるものだと思っておけばいい。それより生きてることを楽しまなきゃ、もったいない。本当にもったいない。その人にしかできない能力や特技が必ずあり、それで人を助けたり、役に立ったりできるわけで、人に必要とされることが絶対にあるはずだから。外に出なきゃ!。家の前のゴミ拾い吸い殻拾いでもいい。散歩して駅のトイレの掃除でもいい。やれることはいくらでもある…。

“幸せ”は待っていても来ない

 話がずいぶん逸れてしまったが、タイトルに戻ることにしよう。お金があれば幸せになるとは思わない方がいい。逆に囚われすぎると害しかない。ほどほどにあれば、それで十分なのだ。それより生きていて仕事もできて、自分ががんばることによって、他の人も喜び、助かって笑顔を見せてもらえれば、充分、幸せなんじゃないだろうか。
 誰にとっても家は安らげるところである。しかし、そこが安らげない場所であったら、いくらお金があっても不幸なだけだ。金持ちでなくても、家族それぞれが安らげるところが、本来の自分の家なんじゃないだろうか。
 何より生きていることに感謝しなければならない。自分が不幸なことを誰かに愚痴っても、プラスになることはない。愚痴るより楽しむことを考えたほうが楽じゃないだろうか。愚痴れば人は離れる。前を向いて夢を語れば、人が振り向いてくれる。待っていても来ない“幸せ”なら、こちらから意図的につかみにいけばいいだけだと居直って、新しいことを誰かに語り、仲間ができれば、始めたらいいだけのことだ。閉じこもるのではなく、人とつながることをしなければ始まらない。

 本当に“幸せ”とは何なのか、よくわからなくなってくる。しかし、今、普通に暮らして大きな不安や悩みもなく、元気でいるのなら十分に幸せだとも言えるような気もするのだが、どうだろう?ご意見、感想、お待ちします。


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